不況の時代をどう生き抜くか(5)
今回は「天職」について考えてみたい。
だれでも、私はこんな仕事がしたい、それこそが天職だと思うから・・と考える
ことがある。もし、考えない人がいるとすれば、それは論外である。
私はと言えば、戦中・戦後というわけのわからない教育の中で、食べるものも
食べられない時代の中にあって「こういう職業に就きたい」などと思ったのは
多分中学校2年生当時だっとと思う。
勉強をすれば「勉強する間があれば働け」と祖父の声が飛んできて農作業が私を
待っている。
学校に農繁期休暇と言う妙な制度が存在していて、その1週間は学校を休んでも
休んだことにはならない仕組みがあった。でも、多くの街中の連中には農販休暇
なんて関係ないから、どんどん勉強ができる。
春秋と二度の農販休暇で学校を休まされ、家で勉強をしておれば叱られるという
環境の中で良い成績がとれるはずがない。
そういう中で、なぜか英語だけが好きだった。勉強する時間がないから英語だけに
絞って勉強していたような感じだった。
中1の時の英語の先生が担任でもあり、英語が得意だったから大事にされた。
その先生が貿易会社に就職して東京へ行ってしまったときに、「貿易会社へ入ろう」
と考えたのが、はじめて目指した目標だった。
だが、すぐに目標が変わる。
中2の時に「文化部顧問」だった先生が新聞記者に転向した。
その先生に「おまえは作文がうまい、素質がある」と言われていたので、今度は
新聞記者になりたいと気持ちが高ぶったものだった。
中学校を卒業して、高校へ進むことを許してもらえず、丁稚奉公をすることになった。
当時、原稿用紙に100枚の私小説を書いて目標とする先生に見せたところ、一笑された。
それはとてもショックで、新聞記者への道の遠いことが分かった。
結局、私は当時、天職なるものを見つけることができなかったのだ。
そこから先は、寝る場所と食べられることが最優先の日常になった。
親の家に住み、のんきに暮らしている近ごろの若者との大きな違いは、夜布団の中で
眠られる場所、生きるために食べられるところを求めて、仕事の好き嫌いなど考える
余裕さえない年月が続いたものだ。 (つづく)