中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

野球を知らない人が、意外と多いらしい

 日本では、少年クラブ、中学校の部活、高校の部活、
 など幅広い年齢層に野球が浸透している。
 世界的に見ても、アメリカに次いで日本は「野球好き」の
 国だと、わたしはおもっている。
 しかし、野球場まで足を運ぶ人たちも、甲子園での高校野球
 楽しみ人たちにも、意外なほど野球を知らない人が多いらしい。
  因みに、私が生まれた年に、日本でプロ野球が誕生したので
 わたしは、野球と共に歩んできたようなものである。
 中学生のころには、スコアブックを記入できるようになっていた。
 スコアブックを記入するためには、ルールを詳しく知らないと
 書けないものだ。
  でも、私がスコアブックを記入できるようになったのは、ほかの
 理由があったからこそなのだ。
 中学校で「3校訪問マラソン」という全生徒参加の大会が行される
 ことになった。
 3校とは「中田小学校」「塩田小学校」「志筑小学校」の意味でもある。
 私は、スタートして1キロも行ってないほどの「変電所」のあった
 あたりで、ひーひーひーと喉から音が出始めて走れなくなった。
 いまなら、先生が気づいて、走ることをやめさせただろうが、当時の
 先生にはそんな気遣いはなかった。
 少し走っては歩き・・と言うようなことをしながら、それでも山登りも
 くだりもある区間も凌いで、ゴールしたのはたぶんビリだったか
 ビリから2番目だった。
 しばらくして、先生にこのように頼んだ「あのマラソンで死にそうに
 なりました。この学校に文化クラブを作って学校新聞を出したいの
 ですが、どうでしょうか」と。
 多分、一宮町ににお住いの先生だったが、許可が下りで「文化部」を
 つくった。
 たぶん恥ずかしい出来だったと思うが、ガリ版で新聞も作った。
 野球部が対抗試合に行くときには同行してスコアブックを付けた。
 学校の用事だから・・と、辛い農作業をその日はやらずに済んだ。
 翌年のマラソン大会の時は、「新聞記者」という腕章をつけて、新聞
 記事の取材風にさせてもらって、走らずに済んだ。
  このようないきさつがあって、スコアブックに記入できるように
 なったということなのだ。
 当時の志筑中学校のピッチャーは井出君だった。あとはあんまり
 覚えていない。
 あまり丈夫でなかった身体だったので、それを念頭に入れて、仕事を
 選び、そのためにかなりの勉強をした。
 人生、何が役立つかわからないもんだ。
 書き出しから、ずいぶんと離れたことを書いてしまったが、選手の
 中にも野球を知らない人がいるらしい。
 プロ野球の監督たちが、そうぼやいているのだから、そうなのだろ。