中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(118)私を守ってくれたのはだれなのか

    《海外移住を考える》

   そのころ、読売新聞の宣伝部長だった稲垣さんが書いた本がよく売れていた。年金生活を海外で楽しもうというような内容だった。彼は、カナダのバンクーバーに住んでいて快適な日々のようだった。

 カナダのリタイエメントビザは、移住後五年経てばカナダ国籍も得ることが出来るという。いろいろ調べてみると、われわれには最適ではないかと思うようになった。

  私は「丘の上の家」に住んでいた六歳から十五歳までの九年間、毎日何時間も海を見つめて思っていたことがあった。

神戸港、大阪港に出入りする船を日々見つめていて、いつの日か海の向こうに住みたいと思っていた。

 二十歳の時、コチア産業の募集に応じて合格したのだったが、金がなくて行けなかった。

 テレビのワイドショーの司会をしていた時に、初めてのヨーロッパ旅行を経験し、欧米へのあこがれが強くなっていた。 

四十五歳を過ぎてから、アメリカへは一人で何度も旅して、ピッツバーグに友人も得ていた。かれはドイツからの移民の子孫だった。 

一期生の修学旅行から三期生の修学旅行にもついていったので、外国暮らしは夢のまた夢となって夢が膨らんでいたのだ。

 カナダへの退職者ビザは、どの国のものより好条件だった。国籍が取れ、年金もでるという退職者ビザはほかにはない。

移住推奨本の影響を受けて一気に希望者が増えたためか、新聞に「カナダの退職者ビザはまもなく締め切られる」というニュースが掲載された。

 東京のカナダ大使館に問い合わせると、まもなく締め切りになるということだった。急いで、書類を準備し、大使館に確認を取ったうえで、東京まで行って書類を提出した。これで、間違いなく取得できるだろうと思った。

 彼女の娘がハワイから戻ってこない。観光ビザは切れているはずで、出国の際に捕まることも懸念される。私の想像では、一緒に行った友人は、かなりの遊び好きなタイプらしいので二人して、ビザのことも忘れて遊んでいるのではないかと、心配した。 娘の救出を兼ねてカナダに行こうと思った。

 ハワイから米本土までなら、国内旅行なので、ビザのチェックはない。米国からカナダ入国の際にチェックがあるだろう。うまくいって入国できればしめたものだ。もう一度米国に入っても、カナダを経ているので問題はない。

      《格安旅行研究家》

 とにかくどうやって格安で旅行できるかということだった。 月に一度「エィビー・ロード」という雑誌が出ていたので、それを買い、徹夜で研究した。 彼女は、その時の私の徹底した調べ方に、半ば呆れて

『これほど集中して徹夜で調べるなんて、すごいなと思う。少なくても、あなたが努力家だっていうのは認めるわ』

 三日ほど調べて、格安で行ける方法を見つけた。日本からアメリカまでは安いチケットはいくらでもある。

あとは、アメリカ国内のワンフライト百ドル制度を上手に使うことだった。ワンフライトは、近いところでも遠いところでも同じ料金だ。それを使えば、日本からアメリカ国内旅行を数か所経由して日本に戻ってきても十万円もいらない。

宿泊は、モーテルを使えば、大きな室内で快適だ。モーテルは、規格が決まっているのでベッドも広く、ホテルより気を使わなくて済むので使いやすいことは、これまでの経験で熟知している。

 日本→ロサンゼルス(往復5万円ほど)→(ハワイから来ていた娘と落ち合う)シアトル→バンクーバー→ニューヨーク→オーランド→マイアミ→ロサンゼルス→日本。

 最初のロスでは一泊せずにシアトルに飛び、シアトル観光のあと一泊して、バンクーバーに向かう。 シアトルからバンクーバーまでは鉄道でも行ける近い距離だ。だから飛行機も二十人乗りという小型だった。 国境を越えているが、ビザ検査も簡単なもので、これで娘も一旦米国からカナダに入ったことになる。

ニューヨークまではロングフライトだが、料金は百ドル。ニューヨークに三泊してからオーランドに向かう。 オーランドはだれもにお勧めしたい場所でもあり、私たち夫婦は三回もオーランドに行ってきた。 デズニーランドの本拠地であり、ユニバーサルスタジオの本拠地でもある。そのほかにシーワールドあるので一週間滞在しても飽きることはない。

次に向かったのはマイアミだった。 マイアミと言ってもマイアミ市とマイアミビーチ市に別れており、多くの人はビーチ市のことだと思っているが、マイアミ市に腰を据えてビーチ市にはドライブするだけで十分だ。 マイアミ市の方が楽しむ拠点が多く夜も楽しい。

以前にマイアミに来た時に、地図を見ていると海の上に国道が描かれているのに驚き、調べると

小説「老人と海」(新潮文庫)の著者であるヘミングウエーが過ごしたことで有名なキーウエストまで多くの島を結んで国道が通っていたのだった。

 車を雇ってキーウエストまで行った時の感動が忘れられない。セブンマイルブリッジ(11.2キロ)の橋を通るときは海の上を走っている感じがしたものだ。

娘を帯同したときには、レンターカーを借り、娘にキーウエスト往復を運転させた。大きなキャデラックだったので娘も肝を冷やしたと後日に語っていたけれど。

 《娘の救出成功》

このような経過を経て、無事に娘は帰国できた。ここでは旅先の観光については触れずに経緯だけを書いておいた。

 初めて会った娘は清子というが、ハワイの三年間で真っ黒に日焼けしており、これまで写真で見せられていたバレエの舞台姿の美しい面影さえなかった。

 帰国してからはカナダのバンクーバー移住に備えて忙しかった。神戸で住んでいたマンションは、そのまま娘に住んでもらうことにしたが、わたしは、どの娘にも一切金銭を与えないという主義だったので、清子にも

『ココの敷金は私に渡してね。家賃もすべてあなたが払うのだよ。それでいいかい?』と了解を得て、しばらくして、わたしたちはバンク―バーへと旅立った。

 私は、どの娘たちに対して金銭援助はしないで、自立を求めてきた。いざというときには助けるし、アドバイスもする。だから娘たちはみんな自立心があって強く生きている。わたしの娘たちはみんな強い。

東京のカナダ大使館に何度も電話をしたうえで書類を整え移住申請を出した。