中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(84)私を守ってくれたのはだれなのか

《ローマの二泊三日》

彼らはいきいきとしていた。 アムステルダムとは違い暖かだった。 若者たちにはローマは肌の合う町のようだった。 治安の悪いローマだが、彼らは自由行動を堪能したようだった。 わたしに心配をかける生徒はいなかった。 引率ではなく、一人前の大人として信用し、自由行動させたことで、彼らも自覚して行動したのだろう。集まるたびに意見交換をし、感想を述べあっていた。

独りの生徒がタクシーにバッグを置き忘れたという。 バッグの中には財布も入っていた。治安の悪いローマで置き忘れて出てくるはずはないだろうが、とにかく警察に届けようと松田先生を警察に行かせた。

その夜、警察からホテルに電話があり、次の予定地のジュネーヴのホテルに送ってくれるという。正直者のタクシードライバーが届け出てくれたらしい。

《スイスのジュネーヴについた夜》

ツアー会社の計らいで、今回のツアー客のほぼ全員が一室に集まり、ゲームを楽しんでいた。中年の女性たち、大学生など八名と私たち十名と添乗員たちだった。

 簡単なゲームをした後で、それぞれ自己紹介をすることになった。その時に中元君が立ち上がり、

『僕は中本と言いますが、それは日本名です。僕は韓国人で本名は李と言います。今度の卒業旅行では、パスポートを取るのに難儀し、学校にご迷惑をかけてしまいました。 僕らはみんな、落ちこぼれなのです』

 ここまで彼が言ったときに、一人の女性が

『そんなことまで言わんでもいいのよ』と、たしなめるように言った。だが、彼は話をつづけた

『おばさん、本当のことなのです。 僕らは中学校の時にやんちゃをして、先生を困らせたり、ものを壊したり、喧嘩ばかりして人に迷惑をかけてきたのです。 ここにいる理事長が作った学校に拾われたのです。 何年か後には、ぼくが理事長をヨーロッパに連れてきてあげたいと思っているのです』

 彼の言葉を聞いて涙ぐんでいる人もいた。

すべて本当のはなしなのだ。

私はジュネーヴでは、レマン湖のほとりを歩き、橋を渡ってデパートにも行った。

 ジュネーヴからパリまではフランス国が自慢の超特急に乗った。日本版新幹線だ。

ジュネーヴの駅で、彼らは一つの発見をした。 列車の到着を告げるアナウンスもないし、危険を知らせるアナウンスもない中で、列車が滑り込んできたのだった。 駅員の姿も見えず、発車する際にさえ、発車ベルの音もなく列車が出ていく。 

『先生。ヨーロッパでは、自分のことは自分で考えないとあかんのやなぁ。日本だったら、いろいろ案内アナウンスもあるけど、ここでは何もないよ』

 百聞は一見にしかず。 修学旅行で彼らは、身を持って体験していった。 彼らには、生涯を通じるようなおおきな財産になったことと思う。

 パリの最後の午後だった。中本君と一緒に歩くことになった。

私はパリには詳しいので歩きながら案内していた。

 ウインドウの明かりが灯りだしたころ、彼は一軒のシューズ店の前で足を止めた。

『先生、あのブーツを見てきていいですか』

『いいよ、自由にね、気を使わないでいいよ』

 彼はブーツを履いてみて、

『先生、どう思いますか』

『なかなかいいと思うよ。バーゲン中だし、値段も手ごろだと思う』

『僕もそう思いますけど』

と言っていながら、彼は店を出た。

『すみません、もう一度履いてみてもいいですか』

と店の中に入ってきて、しばらくして出てきた。

『気に入っているのと違うのか。だったら買えばどうだ』

『実はお金が足りないんです』

 生徒同士にも、金の貸し借りは禁止事項としていたのだが、彼のブーツへの執着ぶりを見て二万円を貸した。

 帰国した翌日に職員室に入ってきた彼は、山下校長にお土産を渡したあと、わたしのところにやってきて、

『先生、ずいぶんお世話になりました。ありがとうございました』

 と、ていねいに一礼しながら、机の下から私に二万円を返したのだった。大人でもできない配慮だった。

 一期生は、卒業までの四年間、一度も警察から電話がかかってくることはなかった。彼らなりのけじめをつけていたのだろう。 手作りの教育が実った一期生だった。 修学旅行の想い出は多いが、いまはまだ開校二年目のはなしを書いているのだから、この辺で止めよう。