中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(50)私を守ってくれたのはだれなのか

 

《妻の妊娠》

そのころ妻が妊娠していることが分かった。大変だ、子供が出来たら妻の仕事も当分はできないだろう。私も、営業手当がなくなりわずかの基本給しかない。これじゃ、ここで家賃払ってやっていけないよな、と話し合った。どうするか、追い込まれた以上・・・それは、やはり二人の故郷でもある、志筑に行くしかないよなと話し合った。妻の母は、私がそろばんを習っていた先生の家の離れを借りて住んでいた。ソロバンの先生と妻の母は、従兄だという。

思い切って、十月に引っ越した。引っ越しと言っても、家具もないのだから楽なものだった。ところが貸家、貸間がなかなか見当たらない。もっと簡単に見つかると思っていたので困り果て、とりあえずはココにしようと決めたのは、裏に田んぼが広がり、ずっと遠くに私が育った丘の上の家が見える、北風のあたる、部屋だった。

予定より二か月も早い十月八日に子供が生まれた。初めて生まれたての赤ん坊を見て、赤ちゃんというが赤くはないな、全身真っ白だなと思った。産婆さんの話では、白いのは膜をかぶっているためで洗ってあげれば、きれいな赤ちゃんになるからねという。早産だったからか、お産は軽く心配はなかった。「いづみ」と名付けた。義母もたびたび訪ねてくれた。この地に来てよかったのは、顔見知りのお店では「付け」で食料品などを買えたことだった。現在と違って、そういうゆとりがお店の側にもあった時代だった。

働き先探し

私はいつまでものんびりしてはおれないので、まだ体調は完全に戻っていないが働き口を捜した。山内先生という方がこの地の殿下(とのした)地区に住んでいて、多方面の店の経理管理をしていると聞き及んでお伺いした。経験はありませんが、簿記三級の実力はありますというと、それならあすから来なさいと言っていただいた。

翌日から振替伝票を書く仕事が任された。各店の伝票を見て、振替伝票に振り分けて記載していく。会計処理が自分に合っているのか、難しいと言われる振替伝票処理がとてもスムーズにできたので安心した。仕事として、最初の一日目から結果を出せたので、振替伝票から元帳への転記をさせられ、試算表作成も任せられ、決算書も任されるほどになった。

半年もすると、先生は

『私が担当している、お店を一軒を君に上げるよ。それを手掛かりに、自分で新しい店を見つけてやっていきなさい』とおっしゃった。先生の担当していた店とは、小学校の校門の前角にある、小さなお菓子屋さんだった。月にわずか五百円で帳簿を見ておられたのだ。普通の商店の場合は一ヶ月2千円から3千円、法人の場合は5千円で請け負っていた。

そのころ(昭和34年2月)に素晴らしい家が見つかった。門のある家で広く日当たりもよく、敷地も広い申し分ない家だった。そのうえに、町のど真ん中なので、便利この上ない場所だった。月に五百円の小さな店から始めたが、不思議に次と経理処理の依頼が舞い込み始めた。洋服屋さん、布団屋さん、材木問屋(株)印刷会社(株)、和菓子屋、自転車屋さんなどで法人が二つあったので収入にも結び付く。

妻も得意の技術が生かせる時が来た。以前からその技術を高く買われていた上に、伊藤欣也先生の許で磨きをかけられたとあって、多くの人から認められ、注文が殺到するのだった。お針子さんを二人採用して、裁断テーブルを置いて本格的に始めだした。家が広いので、義母も一緒に住みましょうと誘って、共に住むことになった。

義母は、毎朝早く起きて、港まで行き、手配をしておいた、コメ、卵などを艀に積み込んでもらい、関西汽船の本船に積み移し、中突堤まで行くと手配してあった人の手を借りて、南京町の八百屋さんに持ち込み、そこを本拠として、南京町の多くの店に頼まれていたものを持っていく。戦後は、「闇屋」と言われたものだが、そのころは警察の摘発もなくなっていた。とってもよく働く人だったし健康な人で、百歳を超えて生きた。

その年の4月10日に皇太子と美智子さまのご成婚式があり、パレードがあった。ミッチーブームといわれるほど人気が高かっただけに、だれもがご成婚パレードをみたいものだとテレビを買い求めた。私も、そのうちの一人だった。ご近所の人たちが我が家に集まり、テレビでご成婚パレードを楽しんでくださった。

長女のいづみも、そのような人たちの輪の中にいたのだった。可愛いわが子の「いづみ」の話を書きたいが、その部分は省こうと思う。思い出しても辛くて書けそうにない。「いづみ」のことで私があちこち遠くまで足を運んだことは数知れない。誕生してわずか一年半後の後の5月19日、麻疹(はしか)の高熱が三日続いて逝ってしまった。体温計が一番上まで上がって吹っ切れていた。門の側で大きく木のように育った白いマーガレットの花がたくさん咲いていた状況を、いつまでも忘れられない。

その悲しみを救ってくれたのは次女の誕生だった。1959年12月6日だった。昭和34年だから私が25歳の時だった。その日は教会で若者たちと卓球を楽しんでいた。四時過ぎに迎えが来て「生まれそうだよ」という。急いで帰ってと言っても五分程度の近いところだが、戻るとすぐにタライを出し、お湯を沸かして準備した。長女の時にすべてを経験していたので手順はよくわかっている。

ふと思い出したのだが、当時わが家では、灯油をガスにしてコンロに送り込むという器具を使っていた。当時はプロパンガスも普及し始めていたのだが、わが家では珍しいものを使っていたのだった。私がそういうものが好きだということもある。

お産は軽く案ずることもなかった。次女も早産だったので、白い膜が覆っていた。早産だとまだ顔が完成されてないのか、お猿のように思えたが、後に美女になり順調にすくすくと育っていった。「恵実」と命名した。希望の星が生まれて何ごとも順調にいくかにおもえて気持ちも高揚していた。

年が変わり、新道の布団、洋服などを扱っている店のご主人が、伝票がいっぱい詰まった段ボールを三個持ってきて、これで帳簿を作り決算してくれと言ってきた。当時は、富島、室津、郡家、地元の紳士服店、印刷工場、材木問屋などの帳簿管理をやっており、これから決算期を迎えるという多忙な時期を迎えるときだ。そういう時に、ダンボールに入った伝票だけで決算までやれとは無茶な話だった。だが、妻の仕事の多くはこの店から請け負っているのだし、店主の無茶な要求も困ったものだが、条件も良かったので引き受けた。なんども徹夜を繰り返しながら一か月間もかかってしまった。

 

各社、各店舗のすべての決算を終えて、それぞれの書類を税務署に提出もすみ、ほっとしていた。

そのころにことに、祖母が来た。この家に引っ越してきてから一年も経つというのに、一度も顔を見せてくれたことがない。隣にある商工会館に住み込みで働いている人とは知り合いでよく来ているのだと、わざとらしく言う。そして、家には上がらないで

『今日はね、よんどころない用で来たのだよ、正木孝良さんって知っているだろう? 正木さんが、わざわざ家まで来てくれて、孫に会わせてくれというのだよ。用件を聞いたが、何もおっしゃらなかった。近いうちに我が家まで孫をよこしてくれとおっしゃるのだよ。家は知っているかい、それなら、ぜひ早くおうちまで行ってあげてほしい。正木さんが、どうしてお前に会いたいのだろうね、なんだか大事な用で急いでいるようだった。そうそう、おばあちゃんは凄い孫を持っているねと、お前のことを大変ほめていたよ』

家の中に入ろうともせず、玄関先の話で帰ってしまった。どうして、正木さんが私に用があるのか、かいもく見当もつかなかった。