中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

小説(33)私を守っているのはだれなのか

 (親方の教えに驚く)

親方は、ある夜に酒井さんと私の二人を呼んでこうおっしゃった。

『君たち二人は若いから、仕事のほかにすることがいっぱいあるぞ。まず、本をたくさん読むことだ。はじめはどんな本でもよいから読みなさい。そして、クラシック音楽をよく聴くことだ。仕事中に音楽がきこえるだろう? あれがクラシック音楽というものだよ。すぐには好きにはならないだろうが、よく聴いているとわかるようになり、大好きになる。もうひとつね、これからは、社交ダンスも知らないと恥ずかしい時代が来るとおもうからね、近いうちに、ダンスの先生に毎週一回家に来ていただいて習うことにする。これからの五年で、いろんなことを身につけた立派な社会人になるようにがんばりなさい』と仰った。

 

(技術もめきめき上達して)

 ここにきて一年が経った。技術もいくらか身につけていった。見ていてわかるのは、親方が作っている木箱に薄い皮やビロードを延ばして貼っていく作業は、かなりの年季が必要だろうとおもった。

高野さんと酒井さんがやっているのは布を伸ばしながら下地に沿って貼るのもむつかしそうだ。いずれも蓋と身の二つに分かれている。蓋も身も内側は絹布と真綿で作ったものを貼り付ける。

 まず担当させられたのは最終工程手前の、丁番の取り付けが最初の仕事だった。蓋の部分と身の部分を丁番でつなぐ。 間違って取り付けると、それまでのすべての工程が台無しになってしまう。慎重で几帳面でないとできない仕事だと親方が言った。

 次いで、金箔テープを箱に沿わせて、熱した模様入りのローラをテープの上を転がして、宝石箱に飾りを付ける仕事だった。これこそ最終工程だったが二年目に入って任されていた。慎重にしすぎても、ローラの温度が熱すぎてもいけない。十分に練習をしてから本番の仕事に入った。信頼されているという実感が伝わってきてうれしかった。

 

(商品のライバル出現)

一つ一つの工程に手間がかかり、たくさん作れるものでなかった。戦後の復興でだんだん景気が良くなり宝飾類も売れ始めると、宝石箱の需要もたかまっているようだった。どんな時も、親方の良いものを作るという理念に揺るぎはなかった。

そういうタイミングで、ついにライバルが現れた。親方は神戸にいる、かつての弟子から最新の情報を情報を聞いたようだ。

 他社の手抜きした商品を、安く売り始めたということだった。手抜きした製品と職人芸で作った製品とは雲泥の違いがあるが、用途によっては安いもののほうが、需要がある。そういう時代に変化しつつあった。

伸ばして貼っているところを、切って貼れば簡単だ。木箱を使わずに、厚紙でも作れる。安い宝飾品を入れるなら、それでも十分かもしれない。

 高級品には、親方が作っているようなものでないと品格が合わないとおもうけれど、安物宝飾品用のケースは職人を必要としないから、安くて沢山作れる。だから、これからは難しい時代になるぞと、親方は苦渋していた。

職人芸を売り物にする親方は、その技術を私たち後継に託したいと願っているのだ。

  この当時まで、占領軍のGHQは日本の中心部を抑えていた。大阪の御堂筋は、昔の設計にしては広く、両脇に銀杏並木が作られ、歩道との間に自転車道があった。

御堂筋の自転車道を走っているとなぜか心地よい気分になる。ところが大阪ガスの本社前までくると、迂回しなければならなかった。「ガスビル」がGHQに占拠されていたからだ。占拠が解かれたのは1952年5月だった。

ぼくが大阪の街を自転車で走り回っていた頃は、まだ日本はGHQに監視され、独立国と言えない状態の時代だったのだ。 

  (パチンコ店が大阪にも進出)

 親方が悩んでいるのに、名古屋から流行し始めたパチンコが大阪にもやってきて、大変な人気だった。職場から歩いて二百メートルも行けば空堀通りだった。

長い商店街が続いている空堀通りにも、当然のようにパチンコ屋が出来ていた。

オール10という名の器械で、入れば10個のパチンコ玉が出てくる。

入ってもいないのに、どんどん玉が増える。気が付けば、パチンコ台の裏にいる女性が、そこを通るたびに出してくれているようだった。

その頃は、たくさんの球がたまっても、現金と引き換えるようなことはしていなかった、と思う(知らなかったのかもしれない)。

お客さんたちはタバコなどを景品として持ち帰っていた。ぼくは「シスコキャラメル」に代えてもらって持ち帰っていた。何度か行くうちに、父の形見の小さな皮のトランクの半分ほどがキャラメルの箱で埋まった。

  ある夜のこと、その従業員が私を待ち構えていて手紙を渡された。徳島から出てきて働いていること、年齢は僕より一つ下だった。もし彼女が美人だったら、デートぐらいしたかもしれないが、まだ男女のことなど知らない頃だったし、キャラメルもたくさん溜まったし、ぱったりとパチンコはやめた。

はじめは好奇心もあった遊戯だったが、単純すぎて飽きたせいかもしれない。回数にすると、20回ほど通っただろうか。

 生まれてこの方、だれともデートなどしたこともなかったほど純な僕だった。

 

《二年が過ぎ、十八歳になった秋のある日突然に》

 淡路島を出てから三年間、親族の誰にも会っていなかったし連絡も取っていなかった。

やっと落ち着けるところに腰を据えたのだから、だれかに近況を知らせておこうと思った。

 十一月の休みのまえの日に親方に

『今里に住んでいるおばさんのところに一泊してもいいでしょうか、この三年間、身内のだれとも会ってないので、叔母にあって話をしておこうかと思います』とお願いしてみた。

大阪大空襲の経験の話もして、その時にみんなが避難した家だとも説明したら、快諾してくださった。

まさか運命の転換が始まるとは、当人はもちろん、だれも思っていなかった。

 

事前に連絡もしていなかったのに、真知子叔母は快く迎えてくれた。叔母は、弟や妹のだれに対しても厳しく諭すので「うるさい人」と、みんなからは思われているようなのだが、このときは、そうかい、そうかいと、頷きながら話をたくさん聞いてくださった。

家の中がきちんと整頓されていて無駄なものがなく、生活感を感じない家だったが、裏の坪庭には手入れされた跡がうかがえる。この家のトイレも好きだった。坪庭のそばにあり縁側を通ってトイレに入ると、いつもきれいに手入れされていた。

叔母は話をするときにも、きちんと正座をして背筋を伸ばしている。肥っているのに大丈夫かと思ったものだ。

 叔母には九歳の娘と五歳の息子がいる。娘の和ちゃんには戦後にも会っているが、息子の道夫とは初対面だった。