中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(32)私を守ってくれたのはだれなのか

《新しい出発・4月に大阪へ転職》

 神戸に戻り、三月いっぱいで辞めさせてくださいと親方にお願いした。急にどうしたのだといわれたが、これまでの不平不満は一切言わず、よろしくお願いします。新しい人を雇い入れるご都合もおありでしょうから、今月いっぱいはお世話になりますと頭を下げた。

同級生たちが高二になるころ、大阪の宝石 ケース製作所に転職した。

いつの間にか祖母に刷り込まれた言葉が頭をよぎる。

『品物を右から左に売りとばす商売人になったらあかんよ』

『自分で作りもしないで、人の作ったものを左に売る商売は儲かるかもしれんが、まともな人間はやらんものだ』と。

あとで思えば士農工商意識を刷り込まれていた祖母の思い違いだが、これを刷り込まれた僕は、人生で何度も儲けるチャンスを失ったものだ。

 (親方のおかげで背が伸びた) 

 人生には、何人もの恩人がいるとおもう。自分の力で生きたのだとおもっていても、恩人に育てられたことを忘れてはならないと今はおもう。

角田さんという親方は大恩人となった。あの当時、雇用主を親方といい、

住み込みで働くものは丁稚小僧と言われた。その間には大きな差があり、それが当然だと思われていた。

人には食欲、物欲、性欲があるといわれるが、当時の私には物欲も性欲も全くない。親方と小僧の間にあるのは寝食の差だった。眠る場所の環境、食べ物の差だ。親方と小僧が同じものを食べるとか、一緒に食卓を囲むなどということはあまりないことだった。

    薬局にいた頃は、親方たちがどのようなものを食べていたのかさえ、見たこともないので知らない。いつも別室で箱膳を一人で食べていた。寝る部屋は二階でよい環境だった。

神戸の店では親方夫婦の食べている姿を見たこともなかった。寝ているそばが通りに面し、酔っぱらいの騒がしい声が朝方まで聞こえる。空間の狭い中で三人が寝る。隙間風が寒いことが身に染みてつらかった。

大阪ではタバコ屋の二階が作業場であり、寝る場所でもあったが、机を脇に片づければ広い場所に三人が寝泊まりできて、全く不満はなかった。

   (中学校卒業から一年後)

 この一年間でなにを学んだのだろうかと反省し、薬局と薬店の違い。卸売りと小売りの違い。卸売りにも競争相手がいること。薬品というものの考え方。

自転車で走り回ってわかった淡路島の半分の道路と地域ごとの事情。薬の調剤の意味とその方法。薬研を使って蝮の骨の乾燥したものを粉にした経験。夏場にずっと井戸に吊るしてあったバターを、遠くの結核患者の家まで急いで届け、結核には栄養が大切なことを知ったこと。半年間でこれだけは分かった。

    そして、新約聖書をわずか三か月で、すべて読み終えたことは自信になった。読書の才能があることに気がついたことはうれしかった。読書が出来れば知識が身につく。たくさん知識を持つことが大事で、学校で教え込まれる勉強とは違って高度な知識も学べるはずだ。

しかし、教会へ行くことはなかった。そんな時間さえない。

 神戸での半年間に、客商売にも才能があることも自覚した。お客さんたちがそう言ってほめてくれたからだが、小売業もやれると思う。大阪での小間物類の仕入れの仕方、値段の付け方なども覚えた。どこに行けば、どのようなものが仕入れられるかは、ほぼ分かった。大阪では業界別に卸売り地域が分かれていて、その場所も仕入れ方も一通り覚えた。

  化粧品などは、会社からの仕入れとブローカーからの仕入れだった。ブローカーが集まって、化粧品を作ろうと話し合っている場に居合わせたこともある。

化粧品って、意外と単純なものを練り合わせて作ってあるらしい。そういうものを作って買った人が被害を受けたらどうするのだろうと思った。

将来どこかで商売をどこかでやれたら才能を生かせたかもしれないとも思ったが、祖母の言葉が頭をよぎってしまう。

《宝石ケース製作所での仕事》

   親方と弟子三人の製作所だった。われわれは「親方」と呼び、親方は高野君(三十歳半ば)酒井君(二十歳すぎ)奥山君と呼んでくれる。

親方と先輩二人は作業に専念しているが、新入りはいろいろな仕事が与えられた。

自転車をこいで天満まで行き宝石箱の下地となる「木箱」を受け取り、山のような荷物を後ろに積んで走って帰る。

当時の天満辺りには職人芸の細工師が多く住んでいた。各種の細工物をこなす名人たちのたまり場でもあったようだ。木箱は宝石箱の下地になるもので、とても精巧で美しいつくりだった。

 別の日には、心斎橋筋にある宝飾店に商品をお届けに行く役目だ。心斎橋筋には人があふれ、通りは人の頭しか見えないほどの混雑ぶりだった。大阪の復興が徐々に進んでいるのだろうとおもったが、初めて伺う宝飾店の場所が分かり難いので困った。

通りの長い心斎橋筋には、沢山の宝飾店があるが、お届けに伺うのは、そのうち三本指に入る名店ばかりだと聞かされている。

 どの店も裏口のようなものはなく、お店の中にいきなり入っていかなければならない。風呂敷を抱えた若い男が入っていくような佇まいではなく、ビビってしまう。ウインドウに人が寄ってくるので、いったんうしろにさがり、言葉を考え、居住まいを正して店に入り、『宝石箱製作所からおどけに参りました』というと、こちらへどうぞと言われて奥へ入り、荷をほどき、商品をお渡し、ありがとうございましたといって店を出るだけだったが、冷や汗ものだった。

  このような一流店に売れるような製品を作っていることが、うれしかった。店の外に出て、生まれて初めてダイヤモンドやルビーなどをみた、ウインドウの中では親方が作った宝石箱が、ダイヤやルビーなどを一段と引き立てていた。

 

《家の角田家の食事の習慣》

 角田家の食事の習慣は「格別」という言葉がぴったりだった。本家には親方と奥様、中学生の娘と小学三年生の娘さん、小学生になったばかりの息子さんとお手伝いさんの六人がいる。長女は「とうさん」と呼び、次女には「こいさん」と呼ぶ。それに作業をしている者三人加えて、九人が大きなテーブルを囲んで、全く平等に食事をいただく。

おかず類は、個々にあてがわれるのではなく、テーブルの上に大きな鉢が並んでいて、自由に各自がとって食べる。

  最初の日の夕食の席に着いたときは驚いた。今日は特別なのかとおもったが、朝昼晩と、こうしてみんなで食べるのだよと親方が説明してくれた。みんなで家族なのだからと。そのことばに、幸せを手に入れたような気分になった。

 わずか一年後に身長が十五センチ伸びていた。水汲みをはじめとする重い荷を担いで坂を上り、十分な栄養がある食べ物でなかったからだろうが、国民学校入学時は、後ろから三番目だった身長が、中学卒業時には前から三番目に低い身長だった。

 角田家の食事と、温かい雰囲気の中で、心がリラックスしたために急速に背が伸びたのだろう。住田家の待遇は、ほかでは考えられないものだった。

秋には京都の紅葉見物に高尾山にみんなでいき、その帰り道に、四条大橋のそばにある「東華菜館」でフルコースの大馳走をご馳走してくださった。東華菜館のフルコースなど、目がむくほどに高価なので、後にも先にも、その時に食べただけだったが、いまでも出された料理が目に浮かぶ。

次の春には、関西汽船高松港に行き、国立栗林公園を散策し、源平合戦で有名な屋島を訪れ、次いで電車に乗って金毘羅神社へ行った。あの長い石の階段で有名な金毘羅さん「金毘羅船々 追い手に帆かけてシュラシュシュシュ」とうたわれる、あの金毘羅さんだ。金毘羅さんは海を行く船の守り神と言われている。 この時も旅館に入りおいしいものを食べさせていただいた。