中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

夢の話の続きだが、夢は短い

 先ほど書いている間に用が出来て中途半端になった。

私の人生の中で大きな役割を果たしてくれた人の話を

書こうと思っている。先ほど書いたのは、角店に就職

した話だった。僅かに3か月間だったが、ご主人と大阪へ

仕入れに何度も連れて行ってもいらったことは、その後に

役だった。人生には無駄なことは何もないと思う。どんな

経験も、後に役立つものだ。

角店(いまもなお、その店は存在するので店名は出せない)

での私の働きをみていた近くのご婦人が「あなたのような

人をだれか紹介して」と言うので、同級生に手紙を送った。

当時は電話もなく、ましてメールなどというものもない。

1か月ほどして同級生からハガキが届いた。町の印刷工場で

働くことになったと書いてあった。そのことを近くのご婦人に

報告に行ったところ、それじゃ私のところにあなたが来てくれ

ないだろうか・・という。狭い4畳半での3人暮らし、貧しい

三食、角店の両面が開け放たれたところに厳しい六甲おろし

の風が吹き込む環境に参っていた私は、後先のことを考えずに

引き受けてしまった。 このおうちでは、二階で宝石を入れる

ケースをご主人一人が作っていて、私に弟子になることを求めて

いたのだった。 だが、世間は狭い。角店のご主人が引き抜か

れて怒っていると10日後に分かったのだった。そこで「あなた

にはとても気の毒だけど、ここに居てもらうわけにはいかなく

なった。だから、私の師匠のいる大阪へ行ってもらえないか」と

いうことで角田さんを紹介されたのだった。 夢に見た角田さん

のことである。そこにも三人の住み込みがいたが、30歳代の人、

10歳年上の人と私(当時16歳)だったので心地よい働き場所

だった。 食事は向かいにあるご主人の家で取るのだが、角田

さんは、私たちと家族を分け隔てることをしないで、一緒の食卓

でいただいた。毎日、それまで食べたこともないほどの内容の

食事だった。生まれて初めて食べた・・というようなことが続いた。

毎日が、とてもご馳走だった。小学校1年生の時、後ろから2,3番目の

身長だった私が、中学校卒業時では、前から2,3番目という身長だった。

角田家の1年で身長が15センチも伸びたのは、ストレスからの解放と

食事内容のせいだろうと思っている。 だが、角田さんを忘れられない

のは、食事のことではない。食事のことは奥様の配慮だったかもしれない

からである。角田さんは、ことあるごとにクラシック音楽を聴くように、

本をたくさん読むようにと勧めてくれた。そして社交ダンスを覚えな

さいと自宅にダンス教師を招いて教えてくれた。 仕事中もずっとクラ

シック音楽が流れていた。あの当時、田舎者の私には初めての体験ばかり

だった。春には栗林公園屋島、などに旅行があり、秋には京都へもみじ

を観に行き、豪華な本格的な中が料理を四条橋のたもとにいまも営業して

いる中華菜館でたべさせてくれた。 何もかも、初めての体験だった。

 だが、人生は思うように進むことはない。いろいろあって角田さんとは

離れて別の店で住み込み、働くこととなった。 でも、そういうすべての

ことが、不思議な縁を呼び、私の人生を変えていったが、思い返せば、

そのすべてが、今の私を作っている。 起き上がってトイレに行った。

鏡に映っている自分の顔に向かって「角田さんありがとう!」と三度言った。

角田さんが生きていれば120歳ぐらいになるはずだ。感謝できる人がいると

いうのは幸せなことだと思う。ありがとう!と言える人が10人はいるだろう。

掃除する時間になった。これからリビングに掃除機をかけるのが私の役割だ。

腰は痛いが、やることはやる。