中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

書き残しておきたい丁稚の頃

 先日、夢で見た「角田さん」のことを書いた。

角田さんの仕事は宝石箱作りだった。わたしたち三人の

住み込み店員も毎日作っていたのだった。角田さんは

ダイアモンド指輪などを入れる最高級の革製の箱を

私たちは木箱(この木箱を作る職人など、いまは現存

してないだろうと思う、その頃は木地やといった)の

上に紙を貼り、熱した模様車で金箔を載せていく。

外回りも私の仕事だった。木地やさんに木箱を受け取りに

南区から都島区まで自転車で行くのが週に一度ほど。

週に2度は得意様回り。この得意様と言うのが、普通なら

当時16歳の私などは出入りさえできないほどの格式の高い

店だった。今のい店があるのかないのか詳しくは知らないが、

心斎橋筋の「おばしや」さんと「京美堂」さんでした。

京美堂さんは今でもよく見るタイプの店で一見さんでも入れる

でしょうが「おばしや」さんはとても一見では入れないような

お店でした。こんな店に出入りするためには、それなりの挨拶

の仕方、態度が必要でした。それも角田さんによって磨いて

戴いたのでしたから今も感謝です。 ところが角田家から出て

行かなくてはならなくなり、徒歩で5分ほどの村上工芸に移り

ましたが、この村上工芸での日々は辛くて苛酷でしたが、この

店での17歳の日々も私にとって財産となっているのです。

 言葉遣いが、徹底的に大阪弁に直されました。漫才でよく使う

河内弁ではなく、上品な大阪弁を使うようにと。この店には店主

と息子二人がいて住み込みが3人だった。大阪工芸大出身の弟の

方が近くに工房と住まいを持っていた。この弟さんのことを

「新宅さん」と呼ぶようにと。角田家でも「イトハン「コイサン

と姉妹を呼んでいました。最近の大阪ではどうなっているのだろうか?

 村上さんのところで働いていた頃の体験を書いておきましょう。

月末に集金に行かされます。あちこち回って集金をするのですが、

はいはい・・と、お金をくださるところだけではありません。

店に戻って、集金の報告をします。「ここは、どないなってんねん?」

来月に一緒に払ってくれるそうです。「現金でか、それとも、小切手

でか」ああ・それは聞いてません。「あほか!子供の使いじゃある

まいし、ちゃんと聞いて置かんか」と怒られる。 次の月、やっぱり

支払ってくれないところがある。どない言うてるねん? 来月支払う

いうてます。現金でか、小切手でか、手形でか? さあ、それは・・

 まだ17歳になったばかりで、小切手も手形も知らない頃でした。

小切手もその日の日付なら現金扱いですが、先付小切手というのも

あるのです。手形も、3か月手形、6か月手形もあり、資金繰りに

困っているところほど長い手形を出すものなのです。3か月もすると

子供じゃあるまいし・・とは言われなくなりました。

 あるとき、洗面器に石鹸箱とタオルを入れて銭湯へ行ってる人たち

がカッコイイな!と思ったことがありました。 そこで、洗面器、

石鹸入れ、タオルを買い整えて銭湯へ行き返ってきた途端に、ちょっと

こい!と。 あのな、ぼうずが生意気なことをするな!それは一人前の

人間がすることじゃ!と、洗面器がボコボコになるまで殴られたの

でしたが、なるほど・・と思ったものでした。 ずいぶん鍛えられま

したが、17歳の1年間は、いま思い返してもいい経験だったなと思う。

 集金からの帰宅が遅くなり、四ツ橋を自転車で渡っていた時のこと、

前から来た警官が、「ちょっと待て、無灯火やないか」ヘイ、すみません。

こんなに遅くなるとは思っても見なかったので。「乗ったらアカン。歩いて

行け」これから上本町2丁目まで歩いたら遅くなりすぎて怒られます。

「わからんやっちゃな~・そこまで歩いて、あとは乗ったらええのや」

おおきに!! というようなこともありました。なつかしい思い出やな。