思い出に残っているのは美味かった食べ物とは限らない。
なにしろ小学校が国民学校と名称変更させられた年に入学した
世代だから戦中戦後を生きたことになる。戦争が始まる前は
世界大恐慌と言われる大不況でもあったのだから、美味しい
食べ物に出会うことが少なかったのは仕方がない。
それでも、15歳の秋に神戸中央職業安定所から紹介されて
行った神戸市灘区水道筋3丁目の北東角にあった「つるや」での
住み込み店員としての食べ物は私の人生の中でも最悪だった。
「つるや」さんは、その後大いに儲けて支店も多くなり、マンション
経営なども行ったと聞いている。 小間物と化粧品を扱う小さな
角地の店だった。 冬場になると、店のすべてが開けられている
中に六甲おろしが容赦なく吹き付けてすごく寒かった。
毎日の食事は決まっていた。 新婚間もないような奥さんは料理を
作らなかった。 ご主人は仕入れなどもあり、奥さんがお客さんの
対応があって忙しかったのかも・・とおもう。
夜は(なぜ夜から書くのか・・)麥が半分入っているご飯と奥さんが
近くの商店街から買ってきたお惣菜(今もそうだが、昔は今以上に
水道筋商店街は活気があった)。朝は、昨夜の残りのご飯に沢庵
3切れ。麥が半分入っている飯はグルテンが多くて固まってしまって
いる。湯を沸かして飯に掛け塊をほぐして、もう一度湯を掛ける。
この時の経験から、あの黄色い沢庵が嫌いになった。
昼は決まって・・市場の入り口にあった肉屋さんのコロッケ2個
だった。 この店にいたのは僅か3か月ほどだったが辛い日々だった。
この後、救世主が現れる。私の働きぶりを見ていた近所の奥さんから
声がかかって大阪へ行くことになり、私の人生が(食人生も)変わって
いく。