中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(20)私を守ってくれたのはだれなのか

 《正月行事は跡取りがやる》

 三年生も秋になり、稲刈り、脱穀、麦撒きなど、すべてが手作業の一連の農作業が終わり、正月を迎える。

 脱穀が終わったころに、新米を使った混ぜご飯を祖母が作るのだが、祖母は味付けの名人だったと思う。汁団子などは絶品だった。

 正月には門松が飾られる。あちこちに散らばっている田んぼに、しめ縄を持っていくのは跡取りの役目であり、正月行事の中で跡取りがやるべきものがいくつかあった。

去年は、なにも命じられなかったが、この年はいくつもの行事を跡取りとしておこなった。

 <正月の遊び> 
 正月には毎年、双六遊びなどを楽しむが、その年は、ぼくが考案した遊びがみんなに人気だった。

 盆にみかんを大盛りにし、大きな針に糸を通し、針を手に持ってみかんに投げて突き刺し、糸を上手に操って盆の外に落とすと、自分の物になる。なかなか難しいから、みんなが夢中になって楽しんだ。

もうひとつ考案した遊びがある。大きなすり鉢を囲み、じゃんけんで負けた人から硬貨を投げ入れる。硬貨が重なれば受取れる。一円玉、五円玉、十円玉を使ってゲームを行う。

名付けて(すり鉢ころがし)。直線的にすり鉢に入れてもよいし、すり鉢の中をぐるぐる回るように投入してもよい。重なった分だけ受け取れる。

正月の遊びを通じて、初めて家族の一員というか、兄と姉たちがいるような感覚になれたものだ。初めて掴んだ幸せ感だった。これまでにはなかった雰囲気がこの正月にはあったように思う。

 <父が軍属になり>

 またも、父にとっては難儀な事態が起きた。

父はわざわざ説明のために志筑に戻ってきて、じっくりと説明してくれた。『国には法律というものがあって、軍の命令には従わないといけないのだ。

軍属というのは、軍隊の手伝いをする仕事で、これも軍の命令なのだ。どういう仕事になるのかは、今は分からん。きっと戻ってくるから、また一緒に暮らそう。だから、ここで頑張れよ』と。

何のことかほとんど分かっていなかったが、なぜか大きなショックをうけた。戦争は親子の生活をばらばらにするのだとおもった。

この日の父は、ずっと素面だった。酒も飲まず、大声も出さなかった。

 

<軍用飛行場で二泊する>

 四年生の夏休みに入ると、父から鳴尾飛行場へ連れて行ってやるから出て来いと連絡が入った。当時は郵便以外に連絡の方法はない。

書かれたとおりに阪急西宮駅で父と出会った。軍属の車で飛行場までいき、二泊した。川西航空機(現在の新明和工業)に隣接した大日本帝国海軍の飛行場だが、浜甲子園パーク、鳴尾競馬場などを接収して滑走路が二本ある飛行場を戦時中に新たに作ったものだった。

競馬場スタンドだった内部の大きな空間に兵士、軍属が常駐しているようだ。

ウイ朗が父と過ごしたのもスタンド下だった。大きな斜めになった空間に天井はなく、軍属も兵士も柵で仕切られただけのところに駐屯していた。

軍人と軍属の区別は制服の違いだった。夜中に兵士が上官に殴られるのを何度も見たが、あとで父は『軍隊というのはこういうものだよ』といった。 

 昼間は、スタンド前でたくさんの飛行機を見た。戦闘機、水陸両用機、輸送機などだ。

 飛行機が飛び立つたびに、兵士たちが立ち並び、敬礼して見送っていたが、そこには悲壮感が漂い戦況が悪いことが子供にも直に伝わってくる。

 二泊したが、楽しかったという思いはなく、父が働いている現場を見たという思いだけが強烈に残った。父と二人だけの、こういう時間を持てたのは嬉しかったが、二度とそういう時は来なかった。

 夏休みが終わり、学校に戻っても鳴尾飛行場へ行ってきた話など、誰にもできなかった。ここは軍の秘密がいっぱいあるところだから、誰にも言うなと戒められていた。まず、鳴尾飛行場があることさえ、ほとんどの人は知らないようだ。

 あとで考えると、どうして自分があのような所に行けたのだろうかと不思議でならない。父がどういう許可を得ていたのかはしらないが、父が頼もしく思えた二日間だったことをいつまでも忘れられない。

 

 秋の農繁期となった

当時、学校は特例として農家の生徒に対しては二週間の「農繁期休暇」が与えられた。学校へ行かずに農業に専念せよということだ。

当時の国民学校では、日常的に授業の半分を軍事訓練としていた。竹槍を持ち、藁人形に向かって突撃を繰り返すとか、山に行って薪を学校に持ち帰るとか、校庭に防空壕を掘り、退避訓練を繰り返すなどに多くの時間を割いていた。あとで考えても馬鹿らしいこともあったが全国の学校で同じようなことが行われていたのだった。都会の学校では、校庭を掘り起こし、サツマイモやカボチャなどを植える学校が多かった。

 私が経験したことで最も馬鹿らしいと思ったのは、真夏に、全校生が順に防水布のバケツを持って海まで行き、海水をすくって学校まで持ち帰る。けっこう重くてしんどいのだ。竹棒登りの櫓の上からムシロが長く垂れ下がっていて、そのムシロを目がけて海水をぶっかける。これをなんどか繰り返して乾燥するまで数日間過ぎたのちにムシロを叩くと、若干の塩が落ちてくる。作業量に比べて収穫があまりにも少ない。

 また、海辺に塩田を作ったこともあったがが、波にさらわれてしまったこともあった。塩田というものの基本を知らずして生徒を指導して、あのようなことを計画し、実行させた責任者はだれだったのか。

 思い出しても馬鹿らしいが、社会経験というものをもちあわせていない教師にはありがちなことかもしれない。

 そういう中でも授業は続けられていたが、農繁期休暇となった生徒は授業を受けられない。ぼくにとって辛かったのは、算数の授業が受けられなかったことだった。

家庭の中で、勉強を教えてくれる人は一人もいなかった。はっきり言って誰もがあんぽんたんだったのだろう。

 算数は公式を知らないと解けないことが多い。算数の授業に取り残されたことが、とって大きな痛手として残ったが、実社会では知恵がそれをカバーしてくれた。

 《父に二度目の召集令状が来た》

 五年生になる直前の昭和二十年一月、父に二度目の召集令状がきた。だれもだまさかと思われていた事態だった。

 父は出征の前に義母を連れて挨拶に戻ってきたが、召集された以上は戦地に赴くことが考えら、義母を大阪に一人で残しておくわけにはいかないから、連れてきた。祖父の勧めで娶った義母の名は「きよの」といった。これからはここに置いてやってくれと言いに来たのだった。大阪の後始末のためにくるのが遅れたと。

 あす出征するという慌ただしい日程だった。戦時というのは、むごい日程を強制するものなのだ。召集があれば、いかなる理由があるにせよ即座に応じなければならない。万一拒否するとか逃亡すれば逮捕され拘禁されるのだ。

 父は、二十歳のころの派手な出征の時と違って、見送りもなく、独りで姫路の連隊へとむかった。