中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(18)私を守ってくれたのはだれなのか

 <父の土産、ラジオと蓄音機、レコード>

その夏に、突然父がやってきた。

 土産は、例によって「粟おこし」だったが、父は前回の詫びもあってか、ラジオと蓄音機とレコードを担いできた。重かったことだろうと思った。

 この近辺には、どの家にもないだろうと自慢していた。やがて、ラジオの調整も、蓄音機にレコードを載せて祖父に浪曲を聞かせるのも私の役目の一つとなった。

 

《池で溺れ死にそうに・生涯の体調に影響が》

 翌日、池で泳ごうかと父がいい、敏美と三人で池に向かった。父は洗濯に使う木のタライを持っていた。

家の真下の池の縁に松の木があって、そこから池に降りていくと、僅かな浅瀬があった。

田植え時分に排水し、池の水位が下って砂場が顔を出しているのだろう。大きな池で浅瀬があるのはここだけだと父が言う。

父は僕をタライにのせ、沖へ押し出した。タライから見ていると、父は敏美の手を引いて泳ぎを教えていた。

そこまでは明確に覚えている。

気が付いたのは、大量の水をガバガバッと苦しみながら吐き出し、父が大声で叫んでいる声を聞いた時だった。父は浅瀬に僕をうつ伏せにして背中を押していた。

「あと十秒気が付くのが遅かったら、助かっていなかっただろうな」と、後日に言っていたが、「おまえが、おとなしくタライに乗っていたら、あんなことにはならなかったのだ」と叱られた。

 

 溺れたために後遺症に苦しむ

この一件がなければ、わたしの人生はまた違ったものになったかもしれない。生涯を通じて苦しめた病気の根源が、水に溺れたことに起因するとは、その頃はだれも気付かなかっただろう。

 命が助かったというだけで、誰もが安堵していたが、難聴になり、耳垂れに悩まされ、将来の大手術につながっていく。

 

 秋の農繁期の大変さ

 秋の農繁期というのは、とても忙しい。彼も初めて鎌を持ち稲刈りを手伝った。

なるべく下から刈り取るように教えられる。刈り取った稲を藁で適当な大きな差に束ねる。

夕方になると家から持ってきた三又を田に立て、丸太を乗せ、稲の束を割るようにしながらかける。すべての田の稲刈りが終わるまで五日ほどかかる。

一週間ほどして、稲が乾いた田んぼから脱穀する。田んぼにむしろを敷き、足踏み式の脱穀機をおき、足でペダルを踏んで回しながら、稲の束をのせて稲からモミだけ飛ばす。

その作業が済めば、稲藁を一か所に高く積み上げる。地域によって言い方が違うが、藁蔵(わらぐら)と言っていた。

実の部分である(もみ)は、むしろで作った大きな籠に入れられて担いで家に持ち帰り、納屋に収める。

すべてに十日間ほどかかったと思う。

 

 稲刈作業のすべてが終われば、(根切り)をする。稲を刈るときに、なるべく下から刈れと言われた意味が分かる。鍬で刈り取った稲の根っこを削ぐのだ。

稲の部分が多く残っていると、後でやることになる(くれめぎ)が大変になるからだ。すべての田んぼの、稲を植えた数だけ(根切り)をするのだから容易ではない。

それが終わると、祖父が牛に牽かせた(鋤・スキ)を使って、田んぼを掘るようにして(畝・ウネ)をつくる。鋤で耕した土の塊を鍬で切り、殴りして土を砕く作業が力仕事で辛い。この作業を(榑・くれメギ)と呼んだ。土の塊だから(くれ)であり、それを砕くのだから(メグ=壊す)になる。

それが終われば、今度は、牛にスキをひかせ、畝の半分の所から耕すことによって、根切りしたところがすべて掘り起こされたことになる。掘り起こされた土の塊を再び鍬をもって(くれめぎ)をして、稲刈り後の田んぼの土が、掘り起こされ、砕かれる。(くれめぎ)には、重い鍬が使われる。

 

 脱穀作業の面白さ

 取り入れたモミが乾いたころ、モミの皮をはぎ取り、玄米を取り出す脱穀が行われる。専門の人たちがやってきて作業を進めるので、見ているだけでよい。

 焼き玉エンジンを使って脱穀機を動かすのだが、この焼き玉エンジンには癖があるのか、なかなか思うようには起動しない。エンジンがかかりかけては止まってしまう。その時の音真似をいつしか得意技としてしまった。

麦まきの準備
(くれめぎ)土の塊をクレと言い、それを鍬でたたいて砕くことをメグという。

の終えた田んぼに、牛と鋤がはいり畝を作っていく。あとは、手作業できれいな畝を作り、麦を撒くための浅い溝をつくり、麦を撒いて終る。これらは(平鍬)を使って作業する。

 麦まきが終って終わりではない。畝に雑草が生えてくるから、それを削りおとし、芽が出てきた麦を守るために、畝の下に落とした土を鍬で上手に振りかける作業を時々行う。

  《大東亜戦争始まる》

 麦まきも終わり、一年の農作業が終えてのんびりしていた頃の、十二月八日、日本海軍による真珠湾攻撃と、陸軍による、英国領マレー半島への攻撃によって大東亜戦争が始まった。第二次世界戦争の始まりだが、日本政府は「大東亜戦争」を正式呼称としている。

どちらも、真珠湾攻撃も、マレー半島攻撃も、国際的な取り決めである、相手国への「宣戦布告」をしないままの奇襲となった。それが、世界世論を敵に回してしまうことになる。

日々の「勝った、勝った」ニュースで、国中が浮かれていた。祖父母は、あの子は大丈夫なのかね、と父が戦争に再び動員されるのを気にしていたが、祖父は大丈夫、二度目の召集などありえないだろうと言い切っていた。

二年生になる。

二年生になる頃は、級友たちとも馴染め、言葉にも慣れて、近所の子供たちともよく遊んだ。

二年の受け持ちは石下先生だった。エノケンと渾名されていた。優しい先生で、自然とみんなの中に溶け込んでいった。

戦争はまだ、日本軍優勢のニュースばかりで、町の雰囲気も険しくなかった。

学校の校門のすぐ横にある新聞販売店で、新聞を受け取り持ち帰るのが日課ともなっていたので、歩きながら新聞をよく読んで、社会の実情は家族のだれよりもよく知っていた。