中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

江戸時代の武士階級の%は?韓国の両班とは・・

 先日、家系図の話のところで、姓名の入った古くからの家系図には偽物が
多い話を書きました。
 徳川家康の場合も、彼の父親の職業も定かではありません。家康は何度も
姓を変えています。早く言うと、当時はいい加減なものだったのです。
武士の最高の姓は「源」ですが、家康も後になって「源」を名乗っています。
「平(たいら)」「源(みなもと)」は源平として有名なのでご存じでしょう。
 戦国時代には、戦いに勝つことで国が与えられたり、武功を立てることで
碌が増えたのですね。名前まで変えられた。豊臣秀吉は貧乏百姓の子供だったし、
彼に取り立てられて阿波藩の大名になった蜂須賀は泥棒でした。
 さて、明治政府になると、すべての人に姓と名が与えられました。
それまでは、華族、武士と平民では庄屋さんのような特別の人にだけ姓が与えられて
いたので、国民の95%前後の人には姓がなかったということになります。
 だから、名前の由来なんて何の根拠もありません。私の友人の場合ですが、
久加天と言いますが、どうも届けたのは「久賀」だったようです。
久賀をの「賀」を略して書くと加の下に天と書きますね。役所が間違えて久加天と
してしまったようなのです。こんな間違いはたくさんあったでしょうね。だから、変な
名前がいっぱいあるのです。
 ちなみに江戸時代の身分別人口という明治政府が調査したデーターがあります。
 地方によって多少異なります。鹿児島や東北は武士が多かったようで、11%ほどです。
東海地方は3.85%と少なかった。
 江戸を含む関東地方は4048%と多くはありません。
 江戸時代は武士階級が支配階級だったことになっていますが、武士というのは
たまたま、そうなっただけで偉い人、上に立つ人というほどのものではありません。
 鎌倉時代に武士階級が成立しますが、それでも武士が偉かったわけではない。
戦国時代になると貧乏百姓の子供だった秀吉も武士になることができたし、天下まで
とってしまったのですから。
 江戸末期現在という調査では、華族0.01%、士族3.64%、平民90.62%、神官0.49%
僧侶0.76%、その他1.73%となっています。百分率には合致していませんが、維新後の
調査です。江戸末期の支配層は6.4%だったようです。
 平民とは農民、工業、商業などを指しています。「士農工商」の身分制度は世界的にも
すぐれた制度(国民をコントロールするうえでの)と言われています。
 少し豊かな農村地帯では、門長屋があり、次いで中庭があり本家が建っているような
感じの農家がみられます。あのような建て方は、武士の家を真似して建てたもので、維新以後に
建てたものだということが分かります。維新以前には武士階級でも上位のものしか住めなかった
構造ですから。下級武士は、百姓より貧しかったのです。
 
韓国ドラマには、両班(やんばん)がよく登場します。というよりは両班の物語だといってよいかも。
両班と日本の武士階級とは全く違います。日本の武士階級は数も少なく、平民からの
収奪も少なかったのですが、両班は数も多く、平民を虐げていましたから、歴史的には
かなりの違いがあります。
 いまからから15年も前のことだったと思いますが、JAニュース紙に両班のことを
詳しく書いたことがあります。ドラマ以上に差別の激しい仕組みだったようです。