中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

(5)オランダという国について

九州.臼杵からオランダ船の情報が入った時、秀吉の遺児の後見役として大坂城にいた徳川家康は大いに興味を持ち、大坂に来るようにと命じた。

すでに船長は没しているため、責任者として航海士のウイリアム.アダムスが一人の船員と共に大坂へいき、家康に対面した。

アダムスは英国人であり戦の経験もあるつわ者ということでオランダに雇われて航海士の任にあった。

共に家康と対面したのは、オランダ人のヤン.ヨーステンだった。

二人が家康と対面したことで、二人の身の上に大きな変化をもたらしたが、それ以上に日本という国にとっては、一大変化をもたらしたのです。

先ずは二人の身の上について書きましょう。

二人共、家康の「貿易顧問」となった。アダムスは「三浦按針」と名を変えた。二百五十石を与えられ幕臣となった。江戸日本橋近くに屋敷をもらった。

ヨーステンも幕臣となり武士になったのだが、オランダの「東インド会社」の日本駐在員に本国から任命され、家康もそれを承認したのだった。

ヨーステンは、シナに任務のために渡航し、日本に戻る際に遭難して亡くなった。

彼が江戸に住まいしていた場所が、現在東京駅裏側の「八重洲」なのです。

八重洲」は、ヤン.ヨーステンが訛って付けられた地名なのです。

三浦按針(ミウラアンジン)については、検索すると多くの記述が見られます。

この二人の貿易顧問によって、日本が世界を広く知るきっかけとなるのですから、人の一生は面白いものですね。

次回は、その影響を書いてみます。