前回にも書いたように、家康は外国人に対して警戒心を持っていた。
キリスト教の旧教(カトリック)は、布教だけでなく、侵略的目的を持っていたことを識っていたからだ。
ただ、よく聴いてみると、彼らは旧教に対して抵抗(プロテスト)した新教(プロテスタント)だと知った。
それでも用心して「出島」をわざわざ作り上げて、
長崎には橋1本で仕切り、許可がないと橋を渡って市内に入ることを許さなかった。
出島の(商館)には、館長、副館長、秘書、簿記担当、医者、作業員なども含めて、せいぜい10数人だったようです。
だが、出島を通してオランダの本が多く日本人の手にわたり、福沢諭吉のように(オランダ学)を受けいれて、多くの先端知識を学び日本を先進国へと導く人が現れたことは、日本にとってラッキーでもあった。
ずっと後日に、オランダで作られた艦船に乗ってアメリカへ渡った福沢諭吉は、アメリカ人が誇らしく説明する物事を、既に知っていたと自伝に書いている。
全てオランダの書物によって、すでに知識を得ていたのだった。