ここでオランダは、どうしてアジアを目指したのだろうかを考えてみましょう。
当時のヨーロッパの各国が欲していたのは「香料」
だった。
肉の保存に誰もが困っていて、多くの肉が腐りかけて匂いがひどかったようです。そのために臭い消しとなる香辛料に人気があり、各地を経てヨーロッパに入る香辛料(スパイス)は高値で取引されていたようです。
最も人気のある香辛料は(コショウ)だった。
アジアへ行けばいろんなスパイスが手に入る。
当時はまだ完成されていなかった(未熟な会社)が、船長を雇い、金と船を与え、武装させて出港させた。
1598年(慶長三年)6月27日に出港したこの5隻の船は、初航海でもあった。
その上に、最高責任者が出港3ヶ月目に病没してしまい、翌年4月にマゼラン海峡にさしかかったところで、暴風に遇い「好使命号」は、はるか南へ流され、食糧が切れた頃に南米のチリに漂着してスペイン人に投降してしまう。
「信仰号」は、マゼラン海峡に引き返すが、飢えと疲労で乗組員の半数が死亡してオランダに戻った。
「信義号」の場合は、86人の乗組員のうち62人が死亡し、残された24人がモルッカ諸島(インドネシア)のチドール島でポルトガル人に拿捕され多くの人が殺された。
「希望号」と「慈愛号」の2隻はやっと航海出来る感じだったが、どちらも船長を病死とスペイン人との交戦で死亡していた。
2隻の船員たちが話し合い「日本という国へ行ってみよう。ポルトガルとスペインが日本と交易しているらしい」と行き先は決めたが、日本へはどうすれば行けるのかも知らなかったようだ。
それでも日本を目指した。
1600年(慶長5年)の2月23日北緯二十度辺りで暴風圏に入り「希望号」は行方不明となってしまったのだった。
「慈愛号」は、4月19日(陰暦の3月16日)に、九州、豊後の臼杵湾に入った。
この時、110人もいた船員は24人になっていた。
当時の日本は、秀吉が没して、家康は秀吉の遺児を養護する立場にあった。
家康は臼杵からの連絡に大変興味を懐き、彼らの代表を大坂に呼んだのだった。
今日はここまでにしよう、つかれました。
では明日会いましょう。