中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

ベートーベンの「難聴」について

 
 
 ベートーベンはやはり偉大な人だった・・・などと書くと、何をいまさら・・・と
思われるだろう。それでも、やはり凄い人だった!!と強調したいのには
大きな理由がある。
 彼は、1801年に恋人あてに、そして1802年には二人の弟あてに遺書を
残している。この2通の遺書は、書かれてから25年も経た後、彼の死後に書斎の
中の隠し戸棚から発見されたものである。
 ベートベンについては、いろんな伝記や解説書も多く、私が補足する要素は
ないかもしれないのだが、敢えて補足しておきたい。
 彼がなぜ遺書を書いたかは、各種の解説書にあるように「難聴」がその理由だと
思われる。
 多くの解説書には「耳の病気」とか「難聴」とかと書かれているが、それ以上の説明
は見当たらない。私が補足しようと思うのは、この点においてである。
 「彼は遺書の中で、医者たちのために容体がかえって悪化し・・」と書いている。
今でさえ、難解な難聴と言う症状を、当時の医者たちに分かるはずもなかったと
思われる。
 彼が難聴になった理由をいろんな解説書には「父に殴られたのが原因」
「梅毒に罹っていたのじゃないか」などとまことしやかに書かれている。薬害も考えら
れるという記述もある。
 このような解説を書いた人たちは、多くはクラシック音楽に詳しい人たちだと思われ
るが、書いた人たちの軽率を指摘しておきたい。
 彼が難聴になった年齢からすると、加齢によるものではなかったと考えられる。
そういう意味では病気のために服用していた薬の副作用と言うのには一理がある。
 いずれにしても、「突発性難聴」であったことは確かではないだろうか。昨年末に
亡くなった中村勘三郎さんが2011年に罹った病気である。彼はその時に主治医から
「引退」を勧告されている。そのご難聴を克服し復活したが、今度はがんのために
命を奪われてしまった。
 ベートーベンの場合もこの突発性難聴だったのではないかと思う。私は2003年に
豪州・パースで突発性難聴に罹った。音が聞こえにくいと言うだけではなく、自分の
声も変な風に聞えてくる。音が反響して聞こえて、人との会話がとても辛かった。
会話している相手にはそれがわかってはいないだけに、自分ひとりで苦しむ結果となる。
私の場合は、その時に「社会福祉法人 サポートネット虹の会」の会長職を放り出して
しまった。とてもじゃないが、人と交われないほど、狂わしいほどの耳の異常だった。
 ベートーベンは遺書の中に、人々とうまく付き合えない、誤解を生んでいる旨のことを
書いているが、その気持ちが私にはよく理解できる。
 だからこそ、彼は6年間も苦しんだ挙句に「遺書」を書いたのだろう。しかし、
それから後の彼の活動はすさまじいものだった。いまに残る多くの名作は、遺書以後に
作られたものだからである。だからこそ、彼は偉大だった!!と叫びたい。
 難聴がいつまで続いたのかは定かではない。ひょっとして、難聴が治まってきて
いたのだろうかとも思う。
 中村勘三郎さんがどんなに突発性難聴に苦しんだかは、2012年の月刊・文藝春秋
6月号あたりに書かてていたように思う。
いずれにしろ、難聴とは聞えないと言うだけではないのだから説明が厄介で、経験した
ものでなければ理解することが出来ないと思われる。私は今、とんでもない耳鳴りに
襲われている。頭鳴りと言ってもよい。うまく表現できないが、サイレンと火災警報器
猛烈に高い周波数の音が、24時間鳴り響いている。多分、ベートーベンも一時期は
このような症状があったのかもと想像している。でなければ・・・遺書など書かないだろうから。
 ベートーベンの遺書の一部をここに掲載しておこう。
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 偉大なる行為を成し遂げることを私は自分自身から進んで行なうべきだと考えてきた。 しかし考えてみてくれ、6年このかた治る見込みのない疾患が私を苦しめているのだ。
物の判断も出来ない医者達のために容態はかえって悪化し、症状は回復するだろう
という気休めに欺かれながら1年1年と送るうちにいまではこの状態が永続的な治る
 見込みのないものだという見通しを抱かざるを得なくなったのだ。
 人との社交の愉しみを受け入れる感受性を持ち、物事に熱しやすく、感激しやすい
性質をもって生まれついているにもかかわらず私は若いうちから人々を避け、自分ひとりで孤独のうちに生活を送らざるをえなくなったのだ。
 耳が聞こえない悲しみを2倍にも味わわされながら自分が入っていきたい世界から
 押し戻されることがどんなに辛いものであったろうか。しかも私には人々に向かって
「どうかもっと大きな声で話して下さい。私は耳が聞こえないのですから叫ぶようにしゃ
べってください」と頼むことはどうしてもできなかったのだ。
 音楽家の私にとっては他の人々よりもより一層完全でなければならない感覚であり、
 かっては私がこのうえない完全さをもっていた感覚、私の専門の音楽畑の人々でも
極く僅かの人しか持っていないような完璧さで私が所有していたあの感覚を喪いつつ
あるということを告白することがどうして私にとってできたであろう・・・。
 私の傍らに座っている人が遠くから聞こえてくる羊飼いの笛を聞くことができるのに
私にはなにも聞こえないという場合、それがどんなに私にとって屈辱であったであろうか。 そのような経験を繰り返すうちに私は殆ど将来に対する希望を失ってしまい自ら命を
 絶とうとするばかりのこともあった。(略)