中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

第2の人生(26)

 これから週に3本は、このシリーズを書くことにしよう。
 
さて、日本クラブの改造の手始めはうまくいった・・と思っている。
少なくとも、つまらないいざこざが絶えて楽しい集いが出来るようになった。
それまで「シニア会」というのがあったが、賀陽先生という空手を何十年間も
指導しておられる方がいて(今回・外務省から表彰された)『「シニア会」では
早よう死にや、と言われているようで嫌やな』と懐かしい大阪弁で言われたので、
発案して「コアラ会」と名付けたところ、参加者が急に増えだした。
 名前の問題だけではなく、楽しい集いの場としてみんなが認知してくれた
からだと思っている。
 どんなグループ作りにも大切なことがある。無私であり、グループの発展
だけを考えなければならないのだ。そこに、何かを持ち込む人がいると
グループはもろくも崩れ去ってしまう。これは私の持論でもある。
これまでいくつかのグループを作って率いてきたが、これさえ守っていれば
うまくいくものだと信じている。
 話を少し戻してみたい。
どんどん書いているうちに、かなり飛ばしてしまっていることがあるのに気が
ついた。
 パースに移住して半年後(1992年9月)に、この国に何かお礼がしたいと
思い始めた。
 そこで、近くのスポーツ施設などが集合しているところ(あちこちに、こんな
施設がある)の、日本風に言えば「カルチャーセンター」に事務局を訪れ、
日本語教室をボランティアでやりたいがどうだろうか、と持ちかけてみた。
ここは公的な機関である。事務局は、次の募集の時に「日本語教室」で
募集を掛けてみるから、生徒は10人以上集まれば、講座を持ってもよろしい
と言ってくださった。
 はたして12名が参加してくれて、日本語教室を、妻と二人で始めることに
なった。この講座のためにした準備は、なかなか大変だった。なにしろ、
日本語なんて全く知らない連中相手の上に、私の英語も頼りないし、
妻は全くと言ってよいほど英語がしゃべられない。
 このような状態から、日本語教室が始まった。楽しい時間でもあった。