これから週に3本は、このシリーズを書くことにしよう。
さて、日本クラブの改造の手始めはうまくいった・・と思っている。
少なくとも、つまらないいざこざが絶えて楽しい集いが出来るようになった。
それまで「シニア会」というのがあったが、賀陽先生という空手を何十年間も
指導しておられる方がいて(今回・外務省から表彰された)『「シニア会」では
早よう死にや、と言われているようで嫌やな』と懐かしい大阪弁で言われたので、
発案して「コアラ会」と名付けたところ、参加者が急に増えだした。
名前の問題だけではなく、楽しい集いの場としてみんなが認知してくれた
からだと思っている。
どんなグループ作りにも大切なことがある。無私であり、グループの発展
だけを考えなければならないのだ。そこに、何かを持ち込む人がいると
グループはもろくも崩れ去ってしまう。これは私の持論でもある。
これまでいくつかのグループを作って率いてきたが、これさえ守っていれば
うまくいくものだと信じている。
話を少し戻してみたい。
どんどん書いているうちに、かなり飛ばしてしまっていることがあるのに気が
ついた。
パースに移住して半年後(1992年9月)に、この国に何かお礼がしたいと
思い始めた。
そこで、近くのスポーツ施設などが集合しているところ(あちこちに、こんな
施設がある)の、日本風に言えば「カルチャーセンター」に事務局を訪れ、
日本語教室をボランティアでやりたいがどうだろうか、と持ちかけてみた。
ここは公的な機関である。事務局は、次の募集の時に「日本語教室」で
募集を掛けてみるから、生徒は10人以上集まれば、講座を持ってもよろしい
と言ってくださった。
はたして12名が参加してくれて、日本語教室を、妻と二人で始めることに
なった。この講座のためにした準備は、なかなか大変だった。なにしろ、
日本語なんて全く知らない連中相手の上に、私の英語も頼りないし、
妻は全くと言ってよいほど英語がしゃべられない。
このような状態から、日本語教室が始まった。楽しい時間でもあった。