中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

旅の思い出(18)JAニュース紙連載中

旅の思い出あれこれ(その18
 シドニー・パースで発行の「JA・NEWS」 新聞 8月号掲載
 
サンフランシスコアメリカ・カリフォルニア州)
シアトルアメリカ・ワシントン州
 
映画やドラマでよく知られた街
 サンフランシスコは、映画や歌などで日本人にはよく知られた地名である。地名の由来はキリスト教フランシスコ会の修道士がこの地に「聖フランシスコ」と名付けたことから始まっている。
この地を舞台とした映画はたくさんあり過ぎてここで紹介できないほどだが、私の世代では、次のようなものを思い出すが、若い人たちには別の映画を思い出されるのではないだろうか。
卒業(1967) ダスティン・ホフマン主演。UCバークレーベイブリッジサンフランシスコ動物園などが舞台として登場する。
ブリット(1968) スティーブ・マックイーン主演。ポリスアクション。マックイーン自らスタントに挑んで、市街地の坂道を爆走する激しいカーチェイスは圧巻だった。
ダーティ・ハリーシリーズ(1971―1988) クリント・イーストウッド主演のポリスアクション。
TVドラマにもよく登場する。「私立探偵ハリー」「刑事ナッシュ・ブリッジス」などは多くの人たちに愛されたドラマではないだろうか。ドラマの「刑事ナッシュ・ブリッジ」は、長い連続ドラマだったが、サンフランシスコのあらゆる場面が出てきて楽しめたものだ。
 
 市歌に制定された歌がある
市の歌として制定された「I Left My Heart in San Francisco」(霧のサンフランシスコ)がもっともよく知られている。邦題は「思い出のサンフランシスコ」など他にもある。1954年にダグラス・クロス作詞、ジョージ・コリー作曲。
サンフランシスコへの懐旧の想(おも)いを歌ったバラードで、作られた当時はヒットしなかったようだ。その後1962年、歌手のトニー・ベネットがサンフランシスコに巡業した際、専属ピアニストのラルフ・シャロンの勧めで歌ったところ非常な好評を博した。そこでレコーディングすると300万枚を超える大ヒット曲になり、この曲を収めたベネットの同名アルバムは同年のグラミー賞を受賞した。諸外国でもヒットし、サンフランシスコのイメージアップに大きく貢献した名歌で、1969年10、サンフランシスコ市歌に制定された。私たちの場合は、フランク・シナトラナット・キング・コールが唄(うた)ったものが懐かしい。今も毎朝、妻は化粧をしながら聴いている。
 
 街の中心部
 フィナンシャル・ディストリクトやユニオン・スクエア周辺のような商業・ショッピングの中心地は、世界的に知られているが、同時にそれを取り巻く多用途(商業・居住混在)地域も、文化的な多様性があり、サンフランシスコの特色となっていて、「最も歩きやすい街」という評価もある。ぶらぶら歩きにふさわしい場所で、観光に飽きて時間が余れば、この地域を歩くだけでも楽しい。
 
 フィッシャーマンズワーフ(漁師の波止場)
 私の場合は、サンフランシスコというと、なぜかここを思い出す。飛行場から市内に入って最初に行くところがここなのだ、といっても、実は2度しか行っていない。ロサンゼルス観光のところでも書いたが、私は海上桟橋のショッピングモールとかレストランとかが大好きで、パースの住居をソレントキー近くに決めたのも、それが理由だった。
 フィッシャーマンッズワーフにはレストランが立ち並んでいる。ここの名物はカニとエビだから、ほかのものには目もくれず、カニとエビを注文する。ゆったりと食事をしてから市内へと移動を開始するのだ。
 
 ケーブルカー
 サンフランシスコといえば、ケーブルカーを語らずして何を語れるだろう。坂道の多いこの町で大活躍しているのがケーブルカーなのだ。あまり大きくない車両で、乗客はデッキの外まであふれるように乗っている様がよく見られる。レールとレールの中間部分に溝があって、溝の中をケーブルが走っていて車両を引っ張っている。車両は一方にしか走れないから終点に着くと、ターンテーブルによって車両をぐるっと一回転させる。フィッシャマンワーフの近くにもターンテーブルがある。この作業を見るのが好きで、何度見ても見飽きないほどだった。
 ケーブルカーに乗って、市内を移動する。あてもなく、次から次へと乗り換えて市内観光に利用するのが楽しかった。サンフランシスコには坂が多い。その点でも神戸と似ている。人口は80万人足らずのようだから、神戸市の半分程度なのだろう。坂が多いのは丘が多いということで、約50もの丘で街が形成されているようだ。一番高い丘で282メートルということだから、神戸の我が家よりも低いということになる。
 私たちが研究していた「神戸の街をよくする会」で、メリケン波止場からトアロードの上までサンフランシスコのようなケーブルカーを通したいという夢は実現しなかったが、近くのウオーターフロント開発で「ハーバーランド」が生まれたのがうれしい。
 
 ロンバート・ストリート
 丘の中でも最も有名なのがロンバート・ストリートである。ロシアンヒルからうねうねと急カーブの急坂を車で下降するのは、なかなかスリルがあって面白い。道の両側には多くの花が植えられていて、美しい。サンフランシスコへ行ったなら、ぜひとも訪れてほしい場所でもある。
 
 ゴールデン・ゲート・ブリッジ金門橋
 サンフランシスコを代表するような存在であるこの吊り橋は、1937年に完成しているというから凄(すご)い。全長2737M、主塔の間隔が1280Mである。神戸と淡路島の間にかかっている吊り橋「明石大橋」の場合は、全長3911M、主塔の間隔1991Mで、近年に造られただけあって世界に誇るものとなっている。
 ゴールデン・ゲート・ブリッジには特別の思い出がある。急な坂道に位置する中級のホテルに宿泊した私たちだったが、ある日ランチを食べていたら「日本の方ですか」と一人の男性がテーブルに近寄ってきた。そして、このホテルのコックをやっていますという自己紹介があって、よろしければ観光案内をして差し上げましょうかという申し出をいただいた。もちろん、喜んでお受けして彼の案内で市内観光を堪能させていただいたのだった。
どの街にもいえることだが、やはり地元の人でないと知らない場所がある。ロンバート・ストリートも彼に連れて行っていただいたが、夕方になってゴールデン・ゲート・ブリッジの根元部分に案内された。「この場所は、一般的な観光案内には載っていない場所です」ということだった。夕暮れ時のゴールデン・ゲート・ブリッジを下から見た感じは特別だった。その近くのレストランを彼が予約してくださり、そこでお別れしたが、感謝感激の一日だった。レストランで夕食をとってから、近くから船に乗って戻ってきたと妻が写真を見ながら言うのだが、私には船に乗った部分だけが、記憶から消え去ってしまっている。
 案内してくださった彼に大変申し訳なく思っていることがある。その後アメリカ一周して帰国後に、彼に礼状を出そうと思った時に、いただいた名刺をなくしてしまっていて、そのままになってしまったことが、何十年もたった今でも心苦しい。
 そういえば、パースにいる時に、何組もの方を、通常では知り得ない、いろんな場所にご案内したが、一度も令状をいただいたことがない。多分、彼らも同じような想いを持っているに違いない。サンフランスシコを思い出すたびに、彼のご親切と、こちらの無礼に心が痛む。
 
 シアトルという街
シアトルは、北はカナダ、南はオレゴン州に隣接する「エバーグリーン・ステート(常緑の州)」と呼ばれるワシントン州にあるアメリカの太平洋岸北西部で最大の都市だ。ワシントン州といっても、東海岸にある首都ワシントンDCとは違う。
ピュージェット湾とワシントン湖の中間に位置し、ユニオン湖やグリーン湖など、水と緑に囲まれた美しい街並みから「エメラルド・シティー」という愛称で呼ばれている。
雨が多いことで有名なシアトルは、「レイン・シティ」の別名でも知られているが、私たちが行った時も凍雨に会って難儀したものだった。実際には降雨量はそれほど多くないといわれるが、私たちには最悪の日となった。日程をあまり持たない観光というものは、その日のお天気次第で街の印象まで、がらっと変わってくるから恐ろしい。シアトルに行ったのは、それまでリタイア後に住みたい街ナンバーワンだったマイアミが第2位となり、第1位にシアトルが選ばれたので、どんな街なのかを見てみたかったからでもあった。
 今なら、イチロー選手の大活躍でシアトルという名を知らない日本人はいないのではないかと思えるほどだが、当時はまだあまり知られていなかった。しかし、日本とは縁の深い都市でもあるのだ。
 凍雨に降られながら、例によって歩き回った。こぢんまりとした街だった。お天気のせいで印象は良くない。しかし、シアトルの名誉のために書いておくと、シアトルがリタイア後のナンバーワンに輝いた理由は街ではなく、住宅環境にあった。湖が多い郊外の住宅街は静かで美しく、白人が多くて、治安が良いのが人気の秘密だったのだ。TVドラマの「グレース・アナトミー」は、シアトルの病院内での物語だが、現在も放送中で、シアトルの雰囲気が伝わってくる。
 
 スペース・ニードル・タワー
 シアトルの象徴的なものにスペース・ニードル・タワーがある。その名のように針のように細いタワーなのだ。高さはさほどでもない。タワーには回転レストランがあり、1周50分で回っている。回転レストランというのは、あちこちで見られる(パースにもある)ので、よく行くのだが、ニードル・タワーの回転レストランでは、船酔いに似た感じがして快適ではなかった。お天気のせいなのか、塔がニードルのように細いので揺れているのか、回転速度が速いのか分からないが、軽いめまいを覚えたものだ。今なら、野球場に足を運び、イチロー選手を応援していただろうに、時代が違って残念だ。
 シアトル空港からカナダのバンクーバーまで飛行機に乗った。飛行機を使わなくてもよい距離なのだが、陸路というのはなぜか不安なので空路にした。ところが、この飛行機が、これまでに経験したことのないほど小さなもので、乗客は10名ほど。ジャンボ機に乗りなれた身とあっては、模型飛行機のような小さな飛行機では落ち着かない。わずかの時間ではあったが、怖い経験だった。