話の合間に「哲学をもたないと」とか「哲学的だね」とかという言葉が
出てくる。しかし、哲学を持つとはどういうことなのか、哲学的とはどんな
ことなのか、分かって言っている人と、わからなくて言っている人がいるような
気がしている。
哲学を勉強していると「哲学的」になれるのかというとそうではないらしい。
哲学者が立派な人たちだとは、決して言えないからだ。哲学のための哲学者
だって多い。
こんな譬えがある。ある哲学者が2階へ上がり、梯子を外して閉じこもって
哲学の勉強をしている。この学者の学んだ哲学は役に立つのだろうか、という
疑問である。
哲学を難しく言うことは、かえってやさしい。どんな物事でも難しく言うことは、
やさしく説明するだけの能力を持たないからだと、私は思っている。
分かりやすい言葉で述べることこそ、何よりも難しいのだということを、学者
などは分からない人が多いらしい。
難しい言葉で話すと偉いように思っている人もいるし、難しい言葉を操ることを
得意とする人たちもいる。哲学的などという言葉の背景には、そんな思い込みも
あるようだ。
しかし、2階へ上がって、梯子を外しているようなタイプの人たちというのは、
世間に疎く、社会の役に立ちそうにない。
これは、すべての分野の研究者に言えることだが、本物の研究者は社会の
ことにも精通している。ある分野の、ある部分しか知らないような研究者は
2階へ上がって哲学研究をしている学者と変わらない。
人生における哲学とは、実社会の中で、悩み苦しむ中でこそ生まれてくる
ものだと、私は思っている。「どう生きるべきか」を実社会の中にあって考える
ことが哲学でもある。どんな問題でもよい、とことん苦しみ考え抜く中で、確固
たる信念が生まれてくれば、その人の哲学ではないだろうか。
頭で考えて分かるよなものは、とても哲学だとは思えない。2階へ上がって
はしごを外して考えるのではなくて、実社会の中で、思い切り悩み、深く考え、
苦しむ中でこそ哲学は生まれるものだと思っている。
深く考えるという習慣を持たない人たちには、一生哲学とは縁がないでしょう。