中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(85)

 (株)中西興業は、神戸市兵庫区に本社ビルを持ち、主に北区を
中心とした地域の建売住宅建設を主なる業務としていた。神戸市内
の建売住宅分野では大手の会社でもあった。
 社長が還暦を過ぎ、体調に不安を抱え後継者がいないことを銀行筋
から懸念されたことから、急いで後継者?を据えなければならない
事情があったと思われる。社長とは、それまでに何度か会ったことは
あったが特に親密な関係ではなかっただけに、突然の専務就任要請に
は驚いた。
 大宣の大島社長からは、来週からでも来てくれと頼まれているし、
中西社長からも直ぐにで就任をと要請されたので、どちらが私を必要
としているのか知りたくて、この二人の社長を引き合わせることにした。
 ある夜、神戸のレストランで食事を共にしながら、忌憚のない意見
交換をしてもらった。私の印象では、それまでそれほど私を買ってい
なかった中西社長が、大島社長の私への肩入れを聴いて、私をもう一
段高く評価したのではないかと思われる。
 結局、銀行筋などの諸問題もあり、中西社長から大島社長へ「中原
君を譲ってくれ」と懇願して、私の運命も決まった。実は、私の事情
もあった。大阪の大正区まで毎日通勤するのは、あまり壮健ではない
私にとって多少の苦痛でもあったからだ。
 私の運命の大きな分岐点でもあった一連の出来事だったが、こうし
て書いてみると、簡単なようにも思える。人生のどん底を感じた瞬間
からの転機だった。こんなことを書くと職業差別とも思われかねないが、
いよいよタクシーの運転手でもやらなければならないか、と覚悟した
時期があった。タクシーの運転がいけないと言うのではなく、一度
その職業につけば、二度と自分のやりたいことができなくなるのでは
と考えたものだ。でも生きていくためには、その時の年齢から考えて
他に選択肢がないのではと言うほどまでに追い詰められていたものだ。
 結果として見れば、私のそれまでの生き方を人がしっかり見ていて
くれたと言うことであり、日々の生き方の大切さを実感したものだった。
 どん底感からは約一年後に二つの会社から役員に迎えられることにな
ろうとは予想もできなかった。
 この数年間の出来事は、あまりにもアップダウンが激しすぎて、トピ
ックス的なことしか思い出さない。もっと書くべきことがあるはずな
のに、思い出せないでいる。
 建設業と言う、私にとっては初めての仕事でもある。しかし、仕事と
言うものは、すべてに共通点があり、一部の特殊な部分を除いては、
どれもこれもみな同じ・・と言う感覚が私にはあった。