中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

国際原子力機構の調査目的は?

 いつ、だれが日本に原発を引き入れたのだろうか。
国家予算として初めて導入されたのは、1954年吉田内閣の時であった。
中曽根康弘氏が積極的に動いて議員立法として成立させたのだった。
その裏には、読売新聞の正力松太郎との連携もある。正力は、その後の
1956年に、初代原子力委員長を務めている。
 最初の原子炉開発研究予算は、原発の燃料になるウラン235にちなんで、
2億3500万円とした。
それまでにも研究用の小さな原子炉はあったものの、商業用の原子炉は
なかった。
 1951年にアメリカが初めて原発に成功し、続いて1954年にソ連原発
に成功している。同じ年の3月には遠洋漁業の第5福竜丸が太平洋のビキニ
環礁で、アメリカの水爆実験の死の灰をかぶり犠牲者を出している。5月には
日本全国で放射能が観測されて騒がれた。
 そのような原爆や原発にまつわる事故や新たな開発が進む中で、日本の
原子力予算が決められたと言うのも因縁めいている。
 中曽根は、アイゼンハワー大統領の講演に啓発されて原発推進への道を
歩んだと言うのが大方の見方であるが、私は少し違った見方をしている。
 まず中曽根氏について個人的に知っていることを少し書いておこう。
彼は、三角大福(三木、田中角栄、大平、福田)の熾烈な政権争いの只中に
いた。しかし、彼は高野山の高僧に師事し、つねにその指導を仰いでいた。
高僧の教えの通りに、耐えに耐えて時を待ち、やっと首相の座を掴んだ時には
三角大福は過去の人となり、中曽根氏は長期政権を可能にしたのだった。
まるで、徳川家康のような人だと言えるかもしれない。
 その彼がつるんだ相手は読売新聞の正力松太郎氏だ。彼は太平洋戦争の
A級戦犯となっているが、後に釈放された。正力氏は内閣に入り閣僚にも
なっている人物だが、陰の多い人でもある。
 後にアメリカが公開した公式文書によって明らかになったが、彼はCIA(米国
中央情報局)の依頼で日本国内で様々な画策をやっていた人だった。
そんな人物が読売新聞と言うマスコミのトップになったのだから言論も自由に
操れると言うわけだ。
 中曽根と正力は急接近した。そして日本の原発推進は急加速する。
ここで私論を書いておこうと思う。
 中曽根と正力の共通点は何か。当時のCIAは何をであり、第9条撤廃
だった。当時のCIAは密かに、日本にも核軍備を持たせるべきだと言う意見が
出されていた。
 この3者の思惑が一致したのは、平和利用の原発といううたい文句で原発
推進する中で、核兵器に必要なウランやプルトニウムを確保して、いつでも
核武装に転じられるようにと考えていたのが実態だろうと推察する。
 今回、国際原子力機構(IAEA)から福島第1原発事故への本格的な調査団
が入っている。もちろん事故調査が目的ではあるが、日本が密かに核兵器
ためのウラン等を隠し持っているのではないかと言う疑いを持っているはずだ。
 これだけの原発保有していれば、いつでもそれが可能だからである。