中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(124)私を守ってくれたのはだれなのか

                      《広いインド洋に沈む夕陽は凄い》

  毎日ではないが、月に何度かは、夕陽が沈む最後の瞬間にダイヤモンドのようにキラッと光ることがある。 見た人にしか分からない感激の瞬間でもある。 一年間に三百日以上は夕陽を見るために散歩を兼ねてヒラリーまで行っていた。

日本国内の不動産物件の広告に「リゾート地」という言葉がよく使われる。 しかし、本当の意味でのリゾート地は日本には存在しないと思う。 

リゾート地というのは、家から車で15分以内にほとんどすべてのスポーツ施設があり、楽しめる施設も備わっているということらしい。

 私たちが住んでいた家からは、車で15分以内に、ゴルフ場3か所、テニスコート8面、ローンボウリング場4面、スカッシュ場、ラグビー、サッカー、水泳、サーフィン、ボート、ヨット、釣り場、巨大ショッピングセンター二か所などが揃っている。十五分あれば岩切場の跡に後に作られた野外劇場にも行ける。

 住んでみてわかったことだが、豪州の人たちの年間平均所得は日本の人たちより低い。 それにもかかわらず、豪州人たちは、質の高い生活をしているのだった。 所得だけでは生活の質を比べることはできないとおもう。 生活の質というものがどういうものかを改めて考える機会にもなった。

      《ゴルフが安く楽しめる》

パブリックゴルフ場では、ある曜日が混雑する。 失業保険を受け取ってゴルフを楽しむ人が多いからだそうだ。 失業保険が日本と違っていて安易にもらえるらしい。 これは政治の問題であるのだが、豪州人は、のんびり遊んで暮らす人もいて、反面がむしゃらに働いて稼ぐ人がいる世界でもあった。 ものつくりに人を雇ってみて分かったことは、どの人も、すごく懸命に働くということだった。

面白半分に書かれた豪州案内記事に、約束の時間を守らないとか、なにごとにもいい加減なのが豪州人だと書かれている。 確かに時間の約束に関しては、日本人の感覚とは違っている。

しかし、パーゴラ作りとかペンキ塗りとか、いろんなことを依頼してやってもらった経験からすれば、日本人のように、休みの時間を取らない。びっしりと働くという印象を強く受けている。

 パブリックゴルフ場の料金設定も安い。 18ホール回って当時は千円程度だった。あの当時の日本は(1992年頃)、前もって予約を取り、朝早く出かけて二万円前後も必要だった。

 最も近いパブリックゴルフ場で、夕方からハーフだけ回るというようなことをよく楽しんだが、こんなことが出来るというのもいい。ゴルフなんて、だれでも気やすく楽しめるスポーツなのだった。

 日本から、世界で通用するようなゴルファーはめったに出ないが豪州からは、いつの時代でも世界に通用する選手が何人も出てくる。

 夏季オリンピックを観るとわかるが、人口の割にオーストラリアは獲得メダル数が多い。恵まれた環境に置かれているために、優れた選手が生まれるのだと思う。

        《メンバーシップのゴルフ場》

 メンバーシップのゴルフ場もたくさんある。近場のメンバーズゴルフ場には空きがなくて入れないので、家から40分のゴルフ場のメンバーとなった。 一人年間5万円ぐらいだったと思うが、正確に覚えていない。妻と同時に入会した。日本の場合と違って、会員券などはない。一年間、プレーし放題という権利だ。 メンバーだけの競技大会が、男子は週に4回、女子は2つも組まれている。(参加は自由)午前と午後に別の大会も行われる。

土、日には、男女ペアの競技がある。 そういう意味では日本のゴルフ会員制とは全く違うのだった。 

日本では、各ゴルフ場にハンデキャップ委員会があり、そこで討議されてハンデが決まる。豪州では、プレー後に、その日のカードを提出しておけば、自動的にハンデが決まり、それがオーストラリア全土のゴルフ場で通用するようにシステム化されていた。 もし、西豪州の競技に出て、二日後にシドニーの競技に出る際に、備えられているパソコンで確認せずにハンデ申告していると、ハンデが変更になっている場合もあり反則となる。 プレー前に、パソコンで自分のハンデを確認しておくことが大切なのだ。 日本だと、何か月間も同じハンデキャップということが多い。

30年前には、すでにこのようなスステム化が行われていたというのだから、すごいと思う。カンガルーが飛び回る中でのプレーなど、想像外ではあったが、ゴルフを楽しむ中での、学びも多かった。何よりもユーカリについて知ることが多かった。 いずれ書こうと思う。

      《日本クラブに入会する》

 パースに日本人がどれぐらいいるのか知らなかった。あとで調べて分かったことは、留学生たちを含めて5千人ほどであった。メンバーは120名ほどだった。 月に二回の定例会があり、その一つがシニア会であった。

 どのような活動をしているのだろうかと興味を持っていたのだが、活動以前に内紛を抱えていた。

組織が出来てから歴史が浅く3年目だった。 組織は内紛で完全に二つに割れていて、入会早々から内紛の事情ばかり聞かされる羽目になった。 世界中どこに行っても「人間模様」というものが存在しているものだ。

当時の会長は、邦人新聞を発行していて、人当たりの良い人だが、前会長を任期途中で追い出して後釜に座っているらしい。 もちろん、彼が前会長を追いだした張本人ではなく、追い出しグループがあり、彼もそのひとりだったようだ。

1993年4月に行われた改選の際に私が「幹事」に選ばれた。役員会に出席してみると、ほとんどが「追い出しに加担した」人たちのようだった。