中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(81)私を守ってくれたのはだれなのか

  《【予科】を新設し、障害者教育の場に活用することに》

      この年から、これまで使ってきた教室のことを「長田校」と呼ぶことにした。

    長田校は 【予科】 として、高等科と分けたのだった。 わかりやすく言うと【予科】に入学した生徒たちは高校卒業資格を与えないことを前提として、学校教育の場を与えることにしたのだった。

この年に入学した生徒数は全部で250名だった。 しかし、高校課程を学ばせるのは困難のある生徒も多くまじっていた。 情緒不安定な生徒、自閉症などの生徒で、公立校と養護学校の狭間にある生徒たちで受け入れ先のない生徒たちだった。

面接の時から、保護者から十分に話を聞いており、高校卒業資格は与えられないが、予科を創設し、三年間受け入れることにしたいが保護者としてはどう思われますかと確認を取ってあった。

 予科の場合は、生徒たちのためにも手数を掛けなければならないので職員数が多く必要となり、経営的には問題だが、どこからも打ち捨てられた子供たちに何とか手を差し伸べてやりたかった。 それらの子どもたちの保護者は大喜びだった。感激して泣く人もいた。

 その子供たち25人を予科生として長田校に入れ、最初からおられた山下先生にチーフとなってもらった。

 障害児教育に多年かかわって来られ、深い造詣を持っている藤井先生を配属した。NHKの報道の直後、ご子息が軽い障害を持っているために進学が難しいとなんども相談に来ていた中井君の母が高校教員免許を持っていると知り、採用して長田校に来てもらった。

 平成二年になると、長田校の生徒数が43名となり、教員数6名だが、このような学校は日本のどこにもなく、全国で最初の施設だったと思う。

 宮城まりこさんが経営する「ねむの木学園」という素晴らしいところがあるが、中学生までで15歳以上の子供はいないのです。 「ねむの木学園」のことを最初に知ったのは、縫製工場を経営していた頃だったが、わたしは感動しつつ、その記事を読んだものだった。だから将来的に長田校の経験は、きっとこの分野で注目を浴びるだろうと思っていた。

  障害者であっても、保護者の同伴登校は認めないで、自主登校と決めていたが、保護者たちはつよく懸念した。私は譲らなかった。親の過保護が子供をだめにしているとおもったからだ。

    《教師の研修は生徒以上に大変だった》

 教師という仕事をしたいと思う人には、幾通りものタイプの人があると思う。その中で、「教師と呼ばれたい人」と「教えることが好き」なタイプの人は、この学校には合わないのだ。

 この人を採用して失敗だったと思う人が、すでに研修会で数人も出てきた。

研修会では(生徒の学習が遅れた理由、大人不信になっている理由などを)丁寧に説明した。そのうえで「生徒を愛し、生徒の善と可能性を信じる」 神戸暁星学園の理念の説明をしたのだが、

「理事長は、先日から研修会のたびに 『生徒を愛し、生徒の善と可能性を信じる』 と理念のことを

何度も強調されますが、別に目新しいことではなく当たり前のことばかりじゃありませんか。ことさ

ら強調される意義が分かりません」 という。

「理事長は、この学校の特異性について何度もお話しされますが、どこが違うのかよくわかりません」という。

 何を今さら、理念、理念とありがたがるほどのものではないという雰囲気があることを知った。どんなに説明しても、理屈では分からないものだと、今更ながらにおもったが、手遅れだった。彼らが、実際に体験していく中で学ぶほかないのだった。

 突然に同じ校舎に200名を超える後輩がやってきたので、一期生の17人は負けてはならじと、後輩に負けない変な格好をして現れるものがいた。 それをみて、「その理念で一年間やってきた姿がこれですか」と冷ややかな言い方をする教師もいた。

「生徒を愛し、生徒の善と可能性を信じる」を、この学校の「理念」として掲げたが、それは当然のことと思う人たちは、これまでに教育現場を知らない人たちか、生徒を切り捨ててきた人たちに違いない。   

本当の意味で「生徒の善を信じ可能性を信じる」人は世の中に多くはないのだ。性善説を唱える人とよくよく話をしてみると、実は性悪説の人だったとわかることがあるように、目の前で、あるいは自分に向かってきた暴言に対して、性善説で対応できる人は、どれほどいるだろうか。

「生徒を愛し、生徒の善と可能性を信じる」という理念を、実行できる人は少ないという現実を、新人教師が現実に見ることになった。 それは、まるで踏み絵のようでもあった。

「理念、理念というけれど、当たり前の内容じゃないか」と思っている教師が、生徒に踏み絵を踏まされて、とつぜんに変化してしまい、現実を目の当たりにして、自分の能力を悟ったのか教育現場から消えていった。