中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(46)私を守ってくれたのはだれなのか

       《今後やっていけなくなっているのは分かっている》

    正月の三か日が終わり、ぼくは一足先に帰路について大阪に立ち寄りたいと大野さんに告げた。

    大阪までは周遊券の都合で、米子から本土の一番西の山口県をぐるっと回って広島、岡山を回って瀬戸内海沿いに帰ることになる。周遊券のありがたいところだが、お金の余裕があれば広島や岡山、倉敷などにも途中下車したい町がいくつもあったが、それができない。懐具合が楽しみを与えてくれない。

大阪にたちより優子叔母に援助をたのむことさえ、まだ迷っていた。援助を求めるのは僕らしい生き方ではないような気がしたのだ。 

僕は15歳からいっさいの支援をだれからも受けないで生きてきたのが自慢だった。

将来のためとはいえ、そだての親に援助をたのむことを潔しよしとしない気持ちがつよかった。

    途中下車もしないで大阪駅に降りたったが、叔母の家にはむかわなかった。母と再会したときに報告に行った時から一度もあっていない。この一年半にいろいろありすぎて詳しいことも話してない。援助のことはともかく、話しだけでもするために会いに行こうか。だが、三年後に伝道師とか牧師になると言っても叔母は喜ばないかもしれない。

優子叔母は僕を奥山家の跡取りにしたいと考えていることがよくわかっているが、祖父母を含めて、ぼくを奥山家の跡取りになどと思っている人はいないのだ。だから奥山家には、かかわりたくない。かかわることで、かえって苦しい思いをするだろうと思うのだ。やっぱり、このまま東京へ戻ろう、そして、その後のことをかんがえようと決意した。

     《大きな計算間違いをしていたのだった》

 どうして僕が困窮する羽目になってしまったのか。これまでに働いたとはいえ丁稚奉公と同じで、大した給与があるわけじゃない。角田家も場合は一ヶ月千円で、その半分を受け取り、半分は私名義で貯蓄してくださっていた。それまで働いたところでは小遣い程度でこき使われていたと言ってよい。社会勉強は多く身についたが自分のものを買えるほどの金はなかった。

 日本ケースの住田家を辞するときにいただいた貯金通帳の金は、神足に行ってからの半年間でほぼなくなっていた。飯盛野へ行った時にも交通費にさえ苦しんでいた。藤田さんという優しそうで美しい彼女が出来ても喫茶店に誘ったこともない。

 働いているのだかが食べられる。飯盛の伝道学校の時もそうだった。東京の農村伝道神学校は学校法人で日本キススト教団立学校である。わたしは特待生として迎えられたが、寮費、授業料は無料であった。食費は、午後の作業ポイントで賄われる。年末になって今後は食堂の叔母さんの助手が私の仕事と決まったので午後の農作業ポイントは満点だ。

 このように書くと金など要らないように思う人もいるだろう。歯ブラシも歯磨き粉も買わねばならない。靴下もパンツも古くなって継ぎはぎばかりしている。こういう中で大阪島之内教会の婦人部から毎月500円を送ってくださったので、何とかやって来れたが、そのほかに一円の収入のない身というのは情けないものだ。

 ついに切羽詰まっていた私は、育ての親に事情を打ち明けていくらかの援助を求めようとしていたのだった。 しかし、結局は甘えることを僕自身が拒否してしまっていた。

  学校に戻ったのは一月十日だった。とても寒い日が続き、寮から洗面所がある棟まで行く間に十センチもあるかと思える霜柱をザクザクと踏んでいき、髪を寝かせるために水を付け寮に戻って櫛を入れたら凍ったものが落ちてきた。これまで経験したことのない寒さだった。 

 霜柱は関東ローム層だからこんなに立ち上がるのだよと先輩が言う。ザックザックと霜柱を踏むなんて経験はこの時が初めてで、その後経験したことはない。

三学期が始まった。こんな月に牛舎当番にならなくてよかったと思った。僕は食堂当番のままだった。生徒たちも職員も戻ってきてこれから忙しくなる。

成人式の案内が来て、一月十五日に町の小さな役所で行われた。成人式がこの日に行われるようになって日も浅く、華やかさもまったくなく、とても地味な行事だった。現在の東京都で行われる行事とは天と地ほどもちがいがあるだろうとおもう。

  《初めて夢精を経験する》

わたしも大人になった。昨年の十月中旬に二十歳になったが、それでも、なにもしらない未熟な青年だったのに、不思議なことだが、1月15日に成人式があった翌日に初めて夢精を経験したのだ。 これまでの謎がすべて解けた。薬局にいた頃、コンドームの先についていた小さな袋はなんのため?と思っていたが、理解できた。しかし、今度は性欲の処理に悩むことも加わった。こんなことを十五歳の少年が経験した場合は、どうしていたのだろうかと、おもった。

  父が、お前の年のころには遊郭に行っていたものだといっていたが、そんなものかと思えた。でもみんな困らなかったのかな~僕は困っているのだと、悩んでいた。性欲という新しい大きな悩みを抱えたものだ。

  大野さんに、このことを話すと、大いに笑われた。お前はまだなかったか?男の生理が?ほんと?と言って信じない。笑って、まだ子供だったのだなといわれた。

でも真実なのだから仕方がない。そちらの面では5年ぐらい遅れているなといわれたが、事実は事実なのだ。当時の背丈は百七十㌢ほどで、体重は六十キロほどだった。5年遅れの大人になったが、悩みのほうが大きく、一つも嬉しくないのだった。

 もう一年早かったら、危なかったなと思う。今里の叔母の早とちりでどうなっていたかわからない。手を握り合って朝まで過ごせるなどないだろうと思う。あの夜に人生が変わっていたかもしれないのだから。これまで童貞だったなんて、いばれる話じゃなかったのだと、おかしくなる。