中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

タンパク質を考える(32)ヤコブ病

 彼が退院してからは週に二度、リハビリセンターへ連れていきました。

 「もう、僕の人生は終わったんだ、リハビリなどしたくない」と駄々を

 こねて困らされましたが、なによりもわが家か彼の家までが遠く、彼を

 のせてリハビリセンターまで連れていき、また家に戻るということが

 週に二度二年間も続きました。彼の日常の世話は以前から世話をしている

 女性がいましたからあんしんでしたが。

 リハビリセンターから彼の家まで戻り、じゃあ・・というと「急ぐ用がある

 のですか、そうじゃなかったら、ちょっと家に入ってください」という。

 家に入ると「麻雀をやりましょう」と誘い込むので困った。彼の家には麻雀の

 自動卓があり、リハビリセンターのあとは、三人麻雀に付き添わされた。

 彼はととても人柄が朗らかで明るく、笑顔が素晴らしい。それも脳血栓の結果

 だという。 彼の兄も同じ病気になったが、兄の場合は、結婚式に行っても

 泣くし、エレベーターの中でも泣くので周囲の人が大変だったらしいが、

 彼の場合はその正反対で、エレベーターの中で急に笑い出したり、お葬式に行っ

 ても可笑しくてしようがないといった感じで笑うようだった。

 いつもニコニコしていて、いいひとでした。

 病気で半身がマヒしているので不自由なのに麻雀が上手で、不自由ながら

 麻雀牌を扱える。

  それを見ていていて、小林さんなら、器用だからパソコンを覚えましょうよと

 勧めた。とてもとてもパソコンなんてと言っていたが、リハビリセンターでは

 「もう、僕の人生は終わりました」なとと泣き言を言っていたのに、覚えると

 とても便利なので覚えましょうと言ったら、それが功を奏し、パソコンがやれる

ようになりました。

 彼はその後に帰国し、神奈川県の真鶴半島の高級マンションに住むようになった。

会社は奥さんと、奥さんの兄に任せてあるようだった。

 やがて介護をしてもらっていた女性と同居するようになった、彼にはもう性的能力

はなくなっていたので、男女の仲ではなかったが、玉ちゃんと呼ばれる彼女は実に

働き者だった。 介護の仕事をつづけながら、彼の世話をしていて、彼女が同居して

いなければ小林さんは生活できなかっただろうと思う。

 私たちも、わたしががんになったことで2005年に、長年住み慣れたパースを離れ、帰国した。

 その後、真鶴を訪れ、わたしたち二人とも行ったことのなかった箱根にも玉ちゃん

が運転して一泊旅行を楽しませていただき、小林さんと、玉ちゃんも神戸に来てくださって楽しい日々を送った。

 玉ちゃんはいつも元気溌剌つとしており、素晴らしい人を小林さんは見つけたものだ

と、感心していたのだった。それから数年後に玉ちゃんに異変が起こった。