中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

92歳の叔母を見送って

 このブログの中で、時にふれて書いてきた叔母が92歳で対岸へと
旅立っていった。 叔母と言っても7歳年上でり、子供のころは一緒に
暮らしたし、それぞれが結婚したあとも、ずっと深いつながりのある
叔母だった。 私の父を頭に11人兄弟姉妹の9番目だった。
 私は11人兄弟姉妹の人生をみんな知っている。11人の中にあって、
もっとも恵まれて育ったのが今朝早くに旅立った叔母だった。
そして、その終盤の人生までが幸せに満ちていた。まあ・・何もかも
幸せと言うわけにはいかず、一人息子を59歳の若さで失った時は
がっくりしていたが二人の娘たちがよく支えた。 娘は二人とも嫁いで
るが、両親をよく支えた。下の娘は、淡路島から両親を神戸に呼び寄せ
面倒を見た。父親を看取り、突然にすい臓がんになった兄も看取った。
その後も母親を支え続け、叔母はいつも「私は世界一幸せ者」と言い続けて
きたのだった。 年齢なりの認知下降はみられたが、脳血栓で倒れた
2週間前まで、週に3度のデイサービを楽しみにしていたのだった。
デイサービスの中で思わぬ才能を発揮していた。書道や絵画など、こんな
才能があったのか・・と思わせる作品を残した。
 私は見舞いに行くと・・手を握るようにしている。大きな声でよびかけたり
しない。病人は大きな声が好きではないのでは・・と、思っている。しかし、
手をしっかり握ると反応があるように思っている。
 叔母は、今朝1時5分に人生を閉じたのだったが、上の娘の話によると
「見舞いに来ていた大勢の方々が帰ったあと、静かになるのを待っていた
ように・・・・・
最後の力を振り絞って眼を開け、父親と兄を看取り、いま自分を看取ろうと
している下の娘の方をしっかり見つめ、涙を流して・・・・逝ったようだ。
最後に「ありがとう!!」を告げたのだろう。 亡くなるとき、多くの人は
その病気の如何を問わず、死の瞬間だけ元気になり、なんらかのサインを
送るようだ。 とても素晴らしい旅立ちではなかったかと思っている。
こんな孝行娘は日本広しと言えど100人もいないのでは・・・とこれまでも何度も
書いてきたが、その親孝行の環境を作ってくれた亭主に感謝をしている。
 明日の葬儀で私は泣かないぞ・・・・私も近い内に行くから、そっちでも
仲良くしような・・と声をかけよう。