中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

おじいちゃんの戦争体験(3)

 昭和16年12月8日に大東亜(だいとうあ)戦争<第2次世界大戦>が
始まって、日本軍は連戦連勝の形で戦線拡大をしていった。
アジア各国に進軍し、太平洋の島々やフイリピンにも進軍した。
日本の国民は、日本軍の快進撃に万歳万歳と日々浮かれていた。
断っておくが、プロ野球の巨人軍が快進撃しているのとわけが違う。
戦争を知らない若い人たちには、快進撃というとジャイアンツのようなもの
かと勘違いされるのではと心配する。
 開戦1年も経つとアメリカ軍の反撃にたじたっとなって、多くの兵隊が
戦死していった。あちこちで玉砕というすさまじい死に方をした兵隊も少なくない。
「玉砕(ぎょくさい)という言葉を検索して、その意味をよく理解してほしい。
 
 戦地における日本兵の敗残は兵士にとってとてもつらい戦いでもあったが、
日本に残る家族たちも厳しい戦いの日々だった。
 私が小学生の3年生のころの学校生活を書いておきたい。
授業は普通は6時限だったが、当時は午後になると片道30分から1時間の
山に行って、すでに作られている薪を学校まで運ぶ作業をしたり、校庭を掘って
防空壕(ぼうくうごう)」を作る作業をする。
 当時は、どの家にも防空壕が作られていた。作ることを義務づけられていていた。
家族全員が入れる大きさの穴を掘っただけのもので、今考えてみても身を守って
繰れるほど丈夫なものではない。
 学校の場合は、校庭のあちこちに穴を掘って防空壕を作った。都会の学校などでは
校庭を畑にして、カボチャやサツマイモなどを作っていたものなのだ。 
 山から持ち帰った「薪」は校舎の軒に積み上げられていた。
 体育の時間は、藁人形(わらで作った人型)めがけて、竹やりを持って突撃する
練習ばかりだった。竹やりでアメリカ兵が上陸してきたら突き殺すという練習なのだ。
ばかげていて笑うかもしれないが、こんなことを日本のえらい人たちはまじめに考えて
いたのだと思うと情けない。
 竹の棒をよじ登る施設が校庭にあった。その施設に筵(むしろ)、<わらで作ったゴザの
ようなもの>をつないで、なが~く吊りさげる。なにをするのだろうか??
 布で作られたバケツがあった。今のようにプラスティック製のバケツではなく、布製の
バケツを持って海まで行く。学校から海岸まで直線で500メートルぐらいだったろうか。
バケツに海水を入れて、学校まで運ぶ。海水だから重い。
バケツに入った海水を、筵にぶっかけるのだ。なんのために???
乾くと、塩が採収されるということで、それはなるほどと思うかもしれないが、労力を
考えると、割に合わない無駄な作業であった。
 こうして、授業以外のことに多くの時間が割かれた。次回は授業について書こう。