中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

おじいちゃんの(貴重な)戦争体験(4)

  戦争がだんだん身近になってきたことを実感するようになってきた。
戦争が始まった当時は、誰もが毎日「勝った!勝った!」と飛び上がらん
ばかりによろこんでいたが、藁人形を竹やりで突く訓練や防空壕堀など
が始まると、戦争は遠い地でのものではなく,身に危険を感じることが多くなった。
 
 この回では当時の淡路島に住んでいた同級生などが経験したことのない、
特別な体験を書きのこしたい。非常に特別な体験だと今でも強く思うことがある。
 
 昭和19年、私が小学3年生だった。父は軍属となって配置された。
父の場合は、すでに20歳で「徴兵令」を受けて徴兵され、日中戦争に従軍して
戦っているので徴兵されることはなく、「軍属」として呼び出されたことになる。
軍属(ぐんぞく)とは何かは各自で調べていただきたい。
 
 昭和19年の暮れに、父が配属されている「川西飛行場」へ面会に行けることになった。
当時は子供だったので、どうして私一人だけがいけたのかは知る由もなく、今では
誰にも聞けないが、とにかく面会に行った夜に父と一緒に夜を過ごせたのだった。
 当時の記憶では甲子園のようなスタジアムの中が宿泊場になっていた。
子供心に恐ろしいと感じたのは、夜中に激しいビンタの音が何発も何発も鳴り響いた
ことだった。スタジアムの中のような場所なので、ビンタの音があちこちに反響して
鳴り響くのだから、恐ろしかった。ビンタの音とともに「きさま!~」と叫ぶ声もこだまして
いた。
 父は「兵隊が何か間違いを起こしたから殴られているんだよ」と小さな声で教えてくれた。
 
 翌朝、飛行場を見ることができた。
飛行機が飛び立つときには、多くの兵隊が一列に並び、飛び立っていく飛行機に向かって
敬礼をして見送っていた姿が今も強烈に印象に残っている。
当時は川西飛行場だと聞きおぼえていたものだが、調べてみると今の西宮市鳴尾浜
近いところだったようだ。
昭和19年8月に、鳴尾競馬場と鳴尾ゴルフ場を合わせて川西航空機という会社が
作られて、飛行機をを生産していた。水上機の生産が得意だったようだが「紫電改
という「零戦」の後継機としてアメリカ軍の戦闘機と対等に戦える唯一の戦闘機を
生産していた。こういう軍関連の職場で働くことを「軍属」という。軍属は命令によって
集められていた。
私がスタジアムのようだと思ったのは、競馬場の建物だったのだ。なるほどと思う。
 戦後は「新明和興業」としてオートバイなどを作っていた。バイクに詳しい人なら
記憶にあるか、あるいは若い人でもバイクに興味のある人は知っているだろう
ポインター」というオートバイを作っていた会社である。
チエーンではなく、バイクにシャフトを使った唯一のオートバイだった。
 
 しかし、私が飛行場で3度ほど飛び立つのを目撃したのは戦闘機ではなかった。
戦闘機は、学校に巡回展示されたこともあり「小さなものだな」と思ったことがある。
川西飛行場で飛び立って行ったのは中型の飛行機だったから、いま想像すると兵員輸送
の航空機だったのではないかと思う。だからこそ、兵隊たちが一列に並んで敬礼して
いたのだと思う。
 もちろん飛行場にはまだたくさんの飛行機が置かれていた。
敗戦の約9か月ほど前の話である。