中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(109)

(109)
一期生のこと (この話の中に出てくる白川君のことは、先日実名[黒川]で紹介しています)
 
学校での日常は、「しんどい」日々の連続でした。十八名という
数字は、少なくてやりやすいように見えて、「一人が風邪を引けば、
みんなが風邪をひき」「一人が右向けば、みんなが右を向いてしまう」
様な面があり、個別に把握することがとても難しいことでした。
ある時は勢力争いを起こし、十八名が中立派を含め三つに分かれ、
中立派以外は学校に来ないというような事態も起こりました。
この時は、保護者まで巻き込んでしまったのです。勢力争いをして
いる片方の側のボスが、相手側のボスを倒そうとデマを流したため、
保護者まで巻き込まれる騒動に発展したのです。中傷されたのは
黒木君でしたが、騒動の真相を追求するために開かれた保護者会に、
彼は「出席させて弁明させてください」と申し込み、堂々と自分の
潔白を証明して見せたのです。この騒動で、デマを流した生徒は学
校を去っていくことになりました。
デマを流した生徒の家へ何度も何度も足を運びましたが、生徒同士
のなかで浮いてしまった彼は、もう学校に戻ることは出来ませんで
した。新しくできた高校での野球部生活だけが何よりの楽しみだっ
た彼は、その高校へ進学できなかったことで心が折れていたので
しょう。
白川君のこと -母が子ともを認めたとき-・
一期生のうち、これまでに述べた生徒のほかにも、ぜひ書いておき
たい生徒がいます。
白川君という、比較的小柄でおとなしい生徒がいました。端整な顔立
ちの少年でした。お母さんも上品な方で、学校行事にはよく参加して
下さっていました。一学期の終わる少し前、学校に来られた白川君の
お母さんとエレベーターの前で話し合っていました。
「お母さん、この夏休みに、白川君にアルバイトさせてみたらどうで
しょう」
お母さんが、白川君の無気力を嘆いていたので、アルバイトをすすめ
たのです。私は、他の生徒にもアルバイトをするように奨励していま
した。
家庭教育、学校教育、社会教育という、教育の三大柱のうち、最近は家
庭教育が希薄になり、社会教育は、ほとんど期待できなくなってきて
います。アルバイトは社会教育上、最も効果があるとの信念を私は持っ
ておりますので、可能な限りアルバイトをすすめることにしていました。
白川君のお母さんは、
「先生、そんなことおっしゃってもあの子にアルバイトは無理ですわ。
まだ、お金の使い方だって充分に分かっていない・・。あの子にお金
なんか持たせたら、いい方向にいかないと思います」
「お母さん、白川君を信じてもいいですよ。彼は、もう立派にアルバ
イトが出来ますよ」
「そうでしょうか」
エレベーターが着き、ドアが開くまでの短い会話でした。
コンピューターのベーシック言語を使って示した図形を描くよう、
グラフィックのプログラムの作成をしなさいというものでした。
私が示した図を見て座標をとり、ベーシック言語でプログラムを作る
のですが、一学期中に習ったベーシック言語を夏休みのうちにすっか
り忘れてしまっている生徒たちは、誰一人として答えが書けません。
通常、テストはある一定の点数をとれるように出題するものですが、
私には一つの狙いがありました。
テストが終わると同時に「モデル解答」を張り出したのです。生徒た
ちは、私の書いたモデル解答をすぐコンピューターに打ち込み始め
たのです。五十行ほどの簡単で短いプログラムでした。ベーシック
言語も、一学期に習っているやさしいものばかりです。生徒たちが、
プログラムを入力したところ、ディスプレイに図形が現れたのです。
生徒たちは、
「何や簡単やな。こんなんで描かれるんか。先生、このベーシックで
他にもできるんか」
と、聞いてきます。私は、「今までに習ったベーシックだけで、こん
なんもできるよ」と、別のものも作ってやりました。それからが大
変でした。生徒はコンピューターの前から離れなくなったのです。
「先生、色の付け方も教えてくれよ」
「こんなん作りたいんやけど、教えてほしい」
次から次へと、毎日毎日、質問ぜめになりました。
「先生も分からんから、明日まで待ってくれないか」
と言わなければならないことが多くなってきました。やがて「神戸港
風景」のグラフィックが作れるまでになりました。それは、六甲連山
があり、山の中腹に市章とイカリのイルミネーション、ポートタワー
が明るく輝き、港には満艦飾の船が浮かんでいるというようなもの
でした。ソフトを使用せず、各自がベーシック言語だけで作ったプ
ログラムでした。
十一月に文化祭を行いました。その文化祭で、保護者の目の前で、生
徒一人一人がコンピューター操作をして、各自が作ったグラフィック
のプログラムを動き出させるというデモを行いました。文化祭に出席
した白川君のお母さんが私のところへ近寄ってきて、
「先生、私は今日から息子を尊敬します」
とおっしゃいました。
今まで、自分が期待したように育っていないことで、無気力だとか
学力の遅れを嘆いていた母親が、初めて自分の子どもを評価したの
です。それから後、白川君がどんどんと変化を見せ始めてきたことは
言うまでもないでしょう。親に評価され、居場所を得た少年は、水を
得た魚のようによみがえってきたのです。
白川君は、二年生の春から、日本で最も大きいファミリーレスト
ランチェーン「すかいらーく」のある店へ、皿洗いのアルバイト
に行き始めました。三年生の夏には、厨房のチーフになってい
ました。アルバイトでありながら厨房のチーフをするということ
は、大変なことです。
私は、話を聞いて、彼が働いている店へ食事に行きました。厨房を
のぞくと、白いとんがり帽子をかぶった彼が、他の人にも指示をし
ながら懸命に作っていました。私は涙が出そうでした。入学したと
きはあんなに小さかった生徒が、もうこんなに育ったのかと思うと、
とても嬉しかったのです。
彼は四年生の時も厨房のチーフでした。就職するに際して、彼は悩
みました。彼が勤めていた店の店長が、本社の入試試験を受けてみ
ないかと誘って下さったのです。店長推薦するともおっしゃって下
さったのです。しかし、大手企業である「すかいらーく」は、ほと
んどが大学卒業者でしめられていました。彼は自分を行かす道がほ
かにあるのではないかと悩んだそうです。結局「すかいらーく」の
入社試験を受けるために上京しました。一次、二次と彼は突破し、
見事に入社しました。大卒数百名に対し、高卒数名の中に選ばれた
のです。
初年度は、神戸市のある店のチーフとして配属されました。
二期生の卒業式の日、白川君と藤岡君の二人をゲストとしてよび
ました。そして、彼ら二人に先輩としてスピーチをしてもらった
のです。私や他のゲストの祝辞が浮いてしまったほど、彼らのス
ピーチは立派でした。列席して下さった神戸市の中学校校長会会
長の寺尾先生は「私は、長い教員生活を今年で__終わりますが、
こんなに感激した卒業式は、今日が初めてです」とほめて下さい
ました。何より、先輩二人のスピーチがすばらしく、会場を引き
締め、盛り上げてくれました。
白川君は、その直後、その年に入社した大学卒業者と給与の号俸が
同じとなり、岡山店へ栄転しました。
三期生の卒業式にも彼は来てくれました。その時、彼は「店長補佐」
に昇格していました。彼と雑談している時、彼は私にこう言いました。
「理事長。理事長は、私たちにおっしゃった言葉を覚えていますか」
「どんなことだったかな」
「理事長は僕らに『今、君らは遊んでいたっていい。しかし、卒業
して社会に出たら、死ぬまで勉強しろよ。学校でする勉強なんか、
たかが知れたものなんだ。大切なことは、社会へ出てからどれだけ
勉強をするかということなんだ。これだけは覚えておけよ』とおっ
しゃったのです。僕は覚えています。そして、実行しています。卒業
したその日から、毎日勉強を欠かしたことはありません」
何ということだ、私の信念をそのまま実行してくれているではない
か。私は感無量でした。彼は、また、
「僕は、組織が僕に百を期待したら組織に百二十を返すつもりで働い
ています」
と言うのです。
私は、「ああ、こいつは私よりうんと大物になるな」と感じました。
しかし、あまり早く熟れていく彼に、その健康だけが心配で、
「おい、身体を大切にしろよ。身体が元手やからな。無理だけはす
るなよ」
と言ったのです。
何が何でも大学と考えている親たちに、人生には、いろんな道がある
ということを知って欲しいと思います。