中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

HPピックアップ記事(1)「いのち)

 私のホームページには、10数年間に亘って「JAニュース」などに連載してきた
エッセイやコラムなどが収められている。
 しかし、牽引が難しいということもあって、なかなか内容まで読んで下さる
方は少ないようだ。
 JAニュースでの記事は、シリーズ毎にいろんなテーマを書いている。これから
膨大な記事量の中からピックアップして、このブログに転載しようと思う。
書いたの時期は古いが、ぜひとも読んでいただきたい。
 
『本と寄り添う名がら』から。
いのち」
(柳田邦男著 講談社文庫)
  この本は、柳田さんと8人の医師との対話〔合計11回〕をまとめたもの
である。
  多くの方々に是非この本を購読することをお勧めしたい、そんな本で
ある。
 柳田さんは、一般的事故、航空機事故、原発事故などの調査を通して、
ほとんどの事故がシステム事故よりも人間の不注意から起きていることを
指摘してきた。それらは、「事実の核心」「失速・事故の死角」「恐怖の2時
間18分」〔以上文春文庫〕「撃墜」<大韓航空機事件>上、中、下〔講談社
文庫〕「事実を見る目」新潮文庫などに書かれていて、丁寧な調査、その
鋭い洞察力と説得力には定評がある。これらの著作によって私は多くの
感銘を受けたものである。
  柳田さんは、息子さんの脳死と言う辛い体験を経て、人間の死を見つめ
始めたようである。そして、医療のあり方についても疑問をもつようになり、
医療現場の調査の上にたつ提案と行動が行われている。
  「優しい医療」と言う言葉は多分、遠藤周作さんが言い始めた言葉のよう
な気がする。遠藤さんはご自身が余り丈夫な身体でなかったこともあり医療
のお世話になることが多かったのだが、その経験から「やさしい医療」につ
いて提案をし、運動をしておられた。晩年のエッセイ集などは「死」と「医療」
について書かれたものが多い。
  柳田さんの向かうところも同じ「やさしい医療」のような気がしている。
この本の中に登場する8人の医師は、日本国内では有数の「患者の側に
立つ医療」を心がけ実践しておられる方々であるが、全体から見ればまだ
ごく少数派と言うことらしい。やさしい医療とは、簡単にいうならば患者の側
に立って行う医療のことだが、特に終末期医療においてこそ患者の側に立
つ医療が望まれている。
 
登場する方々の中から少しその発言をピックアップしてみたい。この本は
対談になっているので部分的なピックアップでは、この本の狙いとしたもの
は浮かび上がらないが、私が何かを感じた部分を取り上げたものと解釈し
ていただきたい。〔*注 <>の部分は私が書き加えたものである。
 日野原重明さん(聖路加国際病院名誉院長・国際内科医学会長など)
  <第4の医学について>
「今までは病気を予防することが第1の医学であった。第2の医学は、病気
を治療し、いのちを助け、延命にもっていくこと。そして第3の医学はリハビ
リテーション医学と言って、障害はあるが、少しでも質の高い生活が送れ
るように助ける、あるいは自らの訓練でそこに持っていくことだった。しかし
、その次にもう一つ、第4の医学がある。
  今までの医学は、いのちをどれくらい救え、延ばすかで成功、不成功が
問われる医学でした。しかし、第4の医学は患者がどのような困難な病気や
重い障害の中に置かれていようと、今生きている限り、患者にどのように
配慮すれば生活が豊かになり、生き甲斐を感じさせられるかということを
考える医学です。」
 柳田邦男さん
<人称による医療の考え方> 
「医療の中で人間を見る眼はどうやったら身につくかーその方法の一つは、
いのちや死というものは人称によって意味が違ってくるということを知ること
ではないでしょうか。
一人称のいのち、一人称の死。二人称のいのち、二人称の死。三人称の
いのち、三人称の死。それぞれ違うんです。医師は患者との関係ではあく
まで三人称です。三人称の死に対しては冷静で客観的でいられるので
、精神的ないのちの側面を見落としがちです。身体、臓器、細胞、遺伝子
といった、モノとして見える範囲でのいのちしか三人称の目には映りません。
例えば、アフリカで百万人死んでも、私達は、ご飯が喉を通らなくなるわけ
ではない。しかし、これが二人称―愛する連れ合いとか子供の死となると、
一人の命であっても、自分の人生に壊滅的な打撃を受ける可能性もあり
ます。そういう二人称の存在というものを、医療者が視野に入れるか入れ
ないかということは、治療とケアの姿勢を大きく変える要素になると思うの
です。」
<医療権力>
「大げさな言い方になりますが、現在の医療は非常に権力的になっている
側面があります。〔中略〕巨大な病院組織と医療機器、極度に専門化された
医学知識。そして膨大な検査データーなどの情報。いずれも一般の人に
とっては、理解することも使うことも極めて難しいものばかりです。したがって
医療サイドは、患者に対して支配的あるいは管理的な力を行使できますし、
現実にそうしています。“医療権力”と言ってもいいくらいです。患者はその
権力の前にひれ伏して恩恵を乞わなければなりません。そのいう力の前
では、患者や家族の人間らしく生きようという気持ちや権利はしばしば無視
されがちです。」
<日本的風土と保険システムの欠点>
  日本にはモノ信仰があって、面接とか、助言とか、カウンセリングとか、
無形のものはすべて善意でやるもので、お金にしてはいけないという気持
ちがありますね。だから、薬に対しては支払う。あるいは手術を受けると、
大変だったからお礼の気持ちを示したいと、患者や家族がお礼を包む。
こういうことは、日本の風土の中ではきわめて自然に受け入れられていま
すね。ところが、ノイローゼになって死ぬかもしれないような心理状態になって
いる患者に、精神科医なりカウンセラーが助言をして命を救ったとする。
それに対して日本人は「ああ、助けてくれた。何か御礼をしなきゃ」という気持
ちにはならない。精神的なものはお金にしない、という風土なんですね。
本当は、面接やカウンセリングは専門的な知識と経験の裏付けをもった
知的作業であり、その労働に対して支払うのは当然のことのはずなんで
すがね。」〔*〔注〕保険システムの不備が会話の中で語られている〕
上田敏さん〔日本社会事業大客員教授
<医療現場の変遷と対応の遅れ>
「医学の歴史を見ると、ごく最近まで主な対象は急性期疾患でした。この
場合、勝負は早く、数日か、せいぜい一ヶ月ぐらい。その間に助かるか死
ぬか、どっちかがはっきりしました。
助かりさえすれば、あとは体力回復の期間を確保することでほとんど元の
身体に戻ることができたんです。ですから、医師は患者のいのちを救うこ
とだけを考えていればよかったわけです。それが、いまはまったく変わっ
てしまい、慢性疾患や障害を持ったまま生きていく人が増えました。
  にもかかわらず、医学の本流は急性疾患時代の思想を背負ったまま
慢性疾患時代に移行してしまいました。教科書や学生に対する教え方を
はじめ医師の価値観まで、急性疾患医学の時代に形成されたものがその
まま受け継がれています。」
「私達医師には、病室に寝ている患者、あるいは外来診察室に座っている
患者だけをみて、それが真の姿だと思ってしまう通弊があります。ところが、
目の前にいる患者が家や職場など生活の場で活躍しているイメージを頭の
中で完全に作らないと、そこへ戻せるか戻せないかを考える基本ができな
いのです。」
市川平三郎さん(国立がんセンター名誉院長・ドイツレントゲン賞受賞)
<患者に対する説明などについて>
「患者さんのレベルは様々です。いくら説明してもわからない人も中にはい
ますからね。
手を変え品を変え、ショックを与えないように、しかも真実を伝えるためには、
大変な労力と時間がかかります。また、別の側面からみると、患者に治療法
を選ばせるというのは酷だと思います。基本的知識がないと不可能なんで
すよ。もしあなたと同じ状態だったら私はこれを選びますよ、といったほうが
親切なのではないでしょうか」
「この治療をすると治る可能性が51%、こっちだと49%だといえば、だれ
だって51%の方を取りたくなるでしょう。しかし、49%の治療法の方がその
人にとってはいい場合もしばしばあるわけです。患者にとって選択肢はイエス
かノーしかないわけですから、それを何%と言う数字だけで考えるのは統計
と個人の事情を混同しているように思えるんです」
河野博臣さん(日本サイコロジー会長)
<保険制度の問題>
「実際、目に見えない、無形な医療サービスについては、なかなか理解されて
いませんね。
  心身症の患者や末期のガン患者に精神療法やグループ療法をやる場合は、
すべてサービスになってしまう。経済的なフィードバックがありませんから、病院
としてはマイナスになる。質の高い医療をやろうとすればするほど、病院の経営
は危うくなっていくわけです。
ムンテラ
医学の世界にはムンテラというのがあります〔中略〕患者が何を言おうと言葉
で抑え込み、医師の思うとおりに治療に持っていくことを言いますが、これが
できる医師のことを「ムンテラが上手だ」と言うんです。〔中略〕患者の要求を
そのまま受け入れることは、医師にとって恥であるわけです。〔中略〕ムンテラ
は、患者と対話しながら「患者も気付かない問題を引き出す」というカウンセリ
ングとは対極のものです。
此の世には、たった一つの真理がある。「人は誰でも死ぬ」ということである。
宇宙はだれが作ったのかなどという話は、真理とは言いにくい。しかし、誰も
が死ぬという真理は誰もこれを否定できないだろう。
「死」を避けられないものとして受け入れるところからその人の「クオリティー
オブ・ライフ」が始まる。一日一日を豊かなものにし、その人の美学を成就さ
せればいい。
そこでもう一つの「クオリティー・オブ・デス」という言葉が最近クローズアップ
されてきている。自分の最期を質の高いものにしたいという考え方である。
言い換えれば自分の最後を納得の行く形に創るということかもしれない。
最近、ヨーロッパ、豪州など世界のあちこちで「安楽死法案」が通過してい
るが、これらもそのような考えかたの一つには違いない。
  誰もが迎える死という現実に、どう向かいあうことができるか・・・人生の
総決算に不正がまかり通ることはない。一度はゆっくり考えてみたいもので
ある。