私は神戸・六甲山の中腹に住んでいる。絶景なのだ。
夜ともなれば100万ドル(今では1000万ドルと言われているようだが)の
夜景が見える。
ここに入居した当時は、毎夜のごとく夜景に酔いしれていた。
時間がたつごとに当初の感動はなくなってきて、時たまきれいだなと
思う程度になってしまった。
そう言えば、豪州・パースに住んだ時も、わが家の前に広がるとてつも
なく大きな芝生の公園と、その向こうに見える青い海に見とれていた
ものだった。海の色が青く見えるのは、空が真っ青であって、その色が
海に反映しているからだ。空も海も信じられないほどの青さだった。
2005年に一時帰国した際に、成田空港まで車で出迎えて下さり、
千葉の木更津側から「海ほたる」に連れて行って頂いたことがある。
海ほたるは、東京湾入り口付近の湾内のど真ん中にある。
家内が知人に『今日は晴れているのですか、曇っているのですか』
と尋ねたら、『今日は晴天です』と答えが返ってきた。 とても晴天には
思えなかった。どこにも空の青さを感じられない。
あれから5年半が経つ。毎日あの時のような晴天がある。もちろん
香港のようなひどいものではないが、とても晴天などという言葉があて
まはらない。しかし、その様な光景が当たり前になっていて、不思議とも
なんとも思わなくなった。「晴れているのですか、曇っているのですか」と
尋ねた頃が懐かしい。
何事もこのように慣れてしまえば不思議でもなく、違和感も感じない。
そんな日常が人の感覚を鈍くする。私の住んでいるマンションも、住宅街
全体でも一度も避難訓練をしたことがないという。地域の役員になって、
提案をしたが誰も賛成してくれなかった。これまで一度もやったことがないし
必要性がないと言う。ところが必要性はあるのだが、気づいていないだけ
なのである。
原発も、作業員でさえ安全を信じていただろう。だからとっさの時に操作
に戸惑ったに違いない。パースにいるときに、ボランティアグループで
「とっさの時に」という冊子を作ったことを思い出した。
いつも、どこでも、とっさの時を心がけていなければならないのではない
かと思う。