《小林さんの寄付に救われる》
彼が「サポートネット虹の会」にお礼として多額の寄付をしてくださった。メンバーはいろいろと、口は出すが金を出す人はいない。茨城から知人が来て、組織の在り方に共感してくれて寄付をしてくれた。その金を【まさかの時に】という小冊子作りに使おうとしたら、寄付金を勝手に使ったと文句を言う連中がいる。寄付を受ける際に、こういうことに使いたいと言って了解されて受取った寄付金であった。
資金作りに、あちこちで、いろいろな催しをした。街のあちこちで催しがあると出かけて行って、焼きそばや、お好み焼きの屋台で作って売り上げて資金にしていたが、それだけに小林さんの寄付はありがたいことだった。 二人からいただいた寄付金は大いに役立ったのだ。
口は出すが金は出さないと云うことでは他にもある。
阪神淡路大震災の時、見舞金を日本クラブのメンバーにお願いした。集まった金額を見て、愕然とした。わたしは会長として、そんな金額を兵庫県に送れない。結局わたしがほとんどを負担して、兵庫県に送ったのだった。
《日本政府から表彰された虹の会》
私は虹の会の会長を7年やって帰国した。サポートネット虹の会は、一時は変な考えの人の加入もあって、かき回された時もあったが、その後は、見事に立ち直り、立派な活動を続けている。
その後、日本政府から表彰され、現在も多くのメンバーを得て活躍している。パースでの日本人組織として堂々たるものだ。 活躍の場の幅を広げ、子育てサポートしての活躍が多いように思える。
《日本語補修校立ち上げ委員長》
現在のパースで「日本語補修校」もよく頑張っている。予想以上に日本女性と豪州男性が結ばれる機会が増え、それに伴って、子供の日本語教育への問題が増えている。パースには、早くから日本人学校が設立されていた。大臣の鶴の一声でできた学校として知られる。
しかし、外国人と結婚し、生まれた子供たちは現地校に入る。国際結婚の場合、子供に日本語を教えるのは大変むつかしいことなのだ。そのために、日本語補修校が必要となってくる。 その必要性を感じて、補習校をつくろうと計画した。
初代の、実行委員長は私が勤めた。 私が、突然耳が聞こえなくなるという病になって委員会から降りたが、総領事館のサポートがあり、素晴らしい補習校が出来たのだった。いまでは、なくてはならない学校と言えるのではないかとおもっている。
ここまで14年間をざっと書いてきたが、すべて団体に関するものだった。 パースでの生活で思い出すことの中で強い印象があるものがたくさんあるのでここからはそれを書いていきたい。