《パース調査旅行を続ける》
パース市を中心にして、南北に高速道路が走っている。これをフリーウエイと称している。無料の広い四車線の高速道路という意味である。
フリーウエイを中心にして、海側と山側に分けて考えることにした。 山側と言っても、山まではかなり遠く、山は聳え立ってはいない。 少し内部に入って周囲を見渡すと、海にひろがる水平線と、平らな山並みとが同じように見えて錯覚するほどだった。
私は「丘の上の家」で育ったので、海の見える住処が大好きであり、フリーウエイより海側の地域を意識してスワンリバーより北の区域を走りまわっていた。 とにかく広いので、地図を頼りに、印を入れながら走る。
売り家や、売り土地の看板が立っているところでは、物件の住所と、不動産屋さんの電話番号を丁寧に書き込んでいった。
アパートメントに戻ると、書き込んだ不動屋さんに電話をして、物件の内容を確かめ価格を確認する作業を毎日やっていた。 英語でのやり取りであり、とても緊張したが楽しみでもあった。 このやり取りで一つだけ悔いの残ることがあった。
相手によってだが、数字の発音が聞き取れない場合があった。
コノリーという地域に新しく、とても美しいゴルフ場があり、そのゴルフ場内の8番グリーンの見える土地があった。 あとで分かったことだが、二軒の家を建てられる権利付きの土地だった。その後の急速な経済発展で、あっという間にゴルフ場周辺の土地に住宅が拡がっていった。
もう少し、英語に堪能であれば、その土地を買って、一軒分の土地を売ったお金で自分の家を建てることが出来るという、丸儲けの土地だったのだ。
そのような条件付き土地というような制度も知らなかったので、丸儲けはできなかったが、知ってからは、ちょっぴり残念だった。
翌年に移住したときに、気になっていたその土地を訪ねて事情を知ったときは、売れた後だった。どうしてあのような凄い場所が、あんなに安かったのかと不思議でならない。
《翌年に備えて》
かなり多くの不動屋さんと電話で話したが、その中の比較的大きな規模の会社の人に会ってみることにした。 彼は、マレーシア・チャイニーズだった。 とても感じがよく、今後ビザが取れてパースに来ることがあれば、きっとあなたに連絡するからと、約束を交わした。 まずは、ビザを取らなければ始まらないのだが、調査旅行の一か月間は、とても有意義であった。
バンクーバーを早々と諦めたのは、寒さの故であったが、もうひとつは車のこともあった。カナダでは、当然のこととて左ハンドルであり、右側通行だ。 慣れない国で、凍結した道を走る怖さを感じたのだった。
そういう意味では、オーストラリアの場合は、全く問題はない。 右ハンドルで左側通行であり、多くの規則が日本と変わらない。 一か月間の調査旅行でも、なに一つ困ることはなかった。
《豪州への移住ビザ申請》
帰国して、直ぐに豪州への退職者ビザを大阪の総領事館に申請した。 2月中旬にビザがおりたので2月末に出発した。
まずはシドニーへ行き、神戸暁星学園の教師だったシャロンに会いに行った。
学校では三人の外国人英語教師を雇っていた。 三人とも女性だったが、彼女らの反応が日本人教師たちと違うものだったことは面白い。
彼女たちは生徒たちを見て、何の違和感も持っていなかったのだった。 ごく普通の子どもたちよと声を揃えて言う。彼らの服装を見ても違和感がないという。生徒たちの行動にも何の問題も感じないというのだった。 生徒たちと彼女たちにも一切問題は起こらなかったのだ。やはり日本人には鎖国根性が残っているのだなのだなと、おもったものだ。
当時からシャロンと付き合っていたサイモンも一緒に迎えに来てくれた。 サイモンとシャロンは、月に二度ほど我が家に来て「天ぷら」を食べるのを楽しみにしてくれていた。 当時、サイモンは語学学校で教えていた。 二人ともベジタリアンなので野菜の天ぷらを作って、生姜の摺ったものを山ほど用意した。 紀香は子供の時から、天ぷらはこうして食べるのが普通だったという。だし汁で食べるよりずっと旨いのだ。
《シャロンとサイモンの驚く行動力》
シドニーで会ったときには、二人はすでに結婚していた。 その夜、シャロンの実家に泊めてもらった。シドニー郊外にある日本人学校の近くにシャロンの実家があった。 敷地がものすごく広大で、二人の息子たちは、敷地内に家を建て、別々に住んでいるらしい。 敷地は何万坪という規模だったのだ。
サイモンとシャロンには驚くような話がいくつかある。とても信じられないような話だが、嘘ではない。 二人は数年前に
『これから、私たちはヨーロッパに行きます。自転車で移動し、月に3万円の予定で各国を巡り、中国に入って南下し、マレーシア半島を南下して、島を伝って一年後にはオーストラリアまで戻ります』
という。にわかには信じられない話だったが、二人はそれを実行したのだった。多少は予定が狂って、月三万円ではやっていけなくなって、半年ほどスキー場でアルバイトをして稼いだ後に、帰国した。マレーシア半島を下って、島伝いに豪州に戻るという部分は、やめて、中国から航空機で帰国したらしい。中国には一か月間いたという。 想像を超えるようなことを彼らは平然とやる。
《それから13年後の彼ら》
話の序でだから、シドニーで再開してから13年後のことも書いておこう。
ある日に突然電話がかかってきた。
『あと二時間後に行ってもいいかな』
『いいけど、いまどこにいるの』
『そこから、ちょっと北の方だよ、じゃあ、またあとで』
私たちの住む場所が決まった後は、彼らに13年間、一度も連絡を取っていなかったが、こうして突然に彼らはやってきたのだった。
チャイムの音がして出てみると、わが家の前に巨大なキャンピングカーが停められていた。日本では見かけることもない大型キャンピングカーだった。
旅行中かと思ったが、そうではなかった。二人は大学で同じ建築科出身なので、結婚後は建築関係の仕事をしていたらしいが、こんな人生ってつまらないと思ったそうだ。
そのころに、豪政府が
「田舎の学校を巡回し、音楽教室ができる人を募集」
という記事が新聞に掲載されたので応募したという。
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オーストラリアの北部へ行くと、広大な田舎があって小さな学校が点在しているらしい。生徒数が三十人という学校もあるようだ。 だが、地図をみればわかるように豪州は日本の何十倍もある
広大な国だけに、都市部以外では、そのような学校がとても多いという。
キャンピングカーには、ピアノも積まれている。 子供二人を入れてバイオリン、ギターなど四人で演奏するという。なんとも面白い企画である。
家に入ってから、シャロンが子供たちを紹介しようとすると、姉のリリーちゃんが自分で自己紹介したいという。続いて弟のマイルズ君が自己紹介をした。 その自己紹介が、手ぶりもユーモアもたっぷりで素敵だった。
サイモンとシャロンは子供のころに、厳しく禁止されているシドニー大橋のてっぺんまで登ったという。シャロンは見た眼がおとなしく、まさかと言ったら、サイモンが言うには、シャロンは子供のころからガキ大将だったのだとという。サバイバルレースの常連だったらしい。
このような二人と知り合っていてよかった。人生にはこういう生き方もあるという、サンプルのように思えるのだ。 二人の子供たちは、キャンピングカーの中で学習させるということで、政府の許可も得ているというのだから、政府の懐も深い。 日本ではありえないことを、やってのけるのだから、得難い友でもある。