《紀香に相談した》
『僕は寒さに弱いのだ。ここでは暮らせそうにない。 ほかの場所に移ろう』
彼女は、即座に賛成してくれた。
紀香は、昭和15年の「紀元二千六百年」に生まれたので、父が紀香と名付けたという。父が六十歳の時に生まれた子供だという。
作家の宮本輝氏は、父が五十歳の時に生まれた子だと本の中で紹介していて、行く先々で「おじいさんと、お孫さん」ですねと言われ、父は、ハイそうですよと答えていたという。
紀香の場合も、知らない人が見れば、同じように思っただろうという。昔のタイプの外套を着て学校の参観に来てくれるので、恥ずかしかったようだ。
彼女の父は、日露戦争で金鵄勲章を受け、すごい年金をもらっていたらしい。村長をしたときに、村に新しい道路をつけて村民に敬われていたようだ。 日枝神社の神官であった。神主さんなのだ。
それゆえに一年中、ことあるごとに大きな鯛が届けられ、飽きるほどに鯛を食べたという。 当時は道路事情などの関係で物流が悪く、大漁があっても捌けない。 だから、セコカニなどはおやつだったという。
神官というのは、いまの時代でも同じだが、料理が上手でなければならない。 食についての知識が豊富な人が多いものだ。 彼女の父も、さまざまな果物の木を植え、食を楽しんでいたようで、戦後の食糧難時代も知らずに育ったという。
父は彼女が成人する前に亡くなった。そして、大阪に嫁ぐ。 金に不自由のなかった親の息子に嫁ぎ、事業らしきものをしたというより、「金のなる木」があるものと勘違いして、二人して楽しみすぎ、やがて金の縁が切れ目になり、不自由な世界へと入っていったようだ。よくあるケースでもある。
ポートアイランド博覧会が開かれているころに別れたようだ。
神戸で、雪の降る中を、長い道のり語り合いながら歩いた時、私は言わないでもいいことまでしゃべり、彼女も言わないでいいことまでしゃべった。 お互いに正直に喋りあって、隠すものがなく、気持ちよく相手を認め合えたのだった。
《オーストラリアのパースまで調査旅行する》
オーストラリア・パースに行く
寒さにおびえた私の提案でパースを調べに行くことになった。
彼女も「夕日を浴びて」というNHKのドラマを思い出したようだ。 パースを舞台にした素晴らしいドラマだった。
また、三十一年間も続いた 「兼高かおる世界の旅」 の中で、兼高さんが
『パースは世界一・美しい街、 世界一・住みたい街』 と言った都市でもある。
最初から移住先として気にしていた都市なのだが、カナダの移住条件がよかったのでバンクーバーを選んだのだったのだが、寒すぎるという問題に直面するとは、思いのほかだった。
パースは、シドニーなど太平洋に面している都市ではなく、西海岸に面し、目の前にインド洋が広がっている。 大阪空港から、シンガポール経由で行った。 6時間+6時間だった。
南半球に行ったのは生まれて初めてだった。 同じ地球だろう、どこだって同じではないかと思うだろうが、違うのだ。 違う所がまた面白い。 北半球とは真逆なことが多いのであとで書くとしよう。
空港からタクシーで、パース市に流れているスワンリバーの対岸に位置するミルポイントにある賃貸アパートメントに入った。 ミルポイントとは素敵なネーミングだ。日本人には「観るポイント」のようにも聞こえる。
道路の向こうはパース動物園であり、窓から見える風景はスワン川をはさんでパースの街並みが見える素敵なアパーとメントだった。 空港についてからの印象に不満はなく、明日からのパース一帯の調査をどうするのか妻と話し合った。
調査を兼ねて観光ができるので、敢えて観光案内などは求めず、レンターカーを借りて行動に移った。
地図ブックを買い求めて調べているうちに、パース市を中心にして、北方面と南方面に別れているように思えた。 本当のパースという地域はごく狭い。 アメリカでもそうだが、ロス市というのは小さいが、広大な地域を、だれもがロサンゼルスと言っているのと同じだ。 欧米の行政区域は日本のものよりかなり小さいのです。日本では「区」で仕切っているような範囲が市という行政区域になっているのです。
地図本は、よくできていて、これ一冊あればどこにでも行ける。 日本のように番地が飛んでいるということもなく、くっきりと区画された中に整然と立ち並んでいる。
当時のパースは人口150万人ほどで、神戸市と大差なかったが、面積の広さは圧倒的だった。兵庫県は西豪州と姉妹都市関係であり、パースには日本文化センターもあった。
パースは西豪州の首都でもある。州というのは教育、財政などを担い、国家は外交、国家安全を担っている。というわけで西豪州首相も存在する。