中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(116)私を守ってくれたのはだれなのか

    《予感どうりになった》

 しばらくしてから、飯田さんの言う「予感」が気になって三宮の店に行って予感の彼女をよく観察していた。どうして予感だと言ったのか知らないが、私をけしかけるつもりかなとも思った。

 予感の彼女は、これまでに一度も遭遇したことのないタイプの女性でもあった。何度も通う内に、付き合ってもらえるようになった。十二月のとても寒い雪の夜、二人並んで長い道を歩いた。寒いとも思わず、話は尽きず、歩いていた。 二人とも正直すぎて、言わないでいいことまで話していた。

  年が明けて1月31日に彼女のマンションに招かれた。 雑談をしていると

『今日は娘の二十歳の誕生日なんよ。きょうハワイから帰ってくるのよ』

『ハワイから?』

『友達とハワイ旅行に行って、今日帰国の予定なの』

『そうだったんや』

 それから二時間あまりも経ったあとのこと

『どうして、ずっと正座したままなの? 何時に帰ってくるか分からないのに』

 そう言われて気がついた。スーツを着たまま畳の上に正座していたのだった。娘が帰ってきてから正座して挨拶してもよいのに、ずっと正座して待っていたのだから面白い。

『一緒に住みたいのだけど、ぼくは大した稼ぎがない、貧乏人なのだよ』

 というと、

『大丈夫よ、私がついているから』

 私がついているからって・・・よく言うよ。 結局その日に娘は帰って来なかった。

  紀香という女性は私にとっての救いの神となった。

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 しばらく経ってわたしのマンションで住んでもらうことにした。飯田さんの予感が見事に当たったと言えるかもしれない。

退職したし、今後のことも分からないというと、彼女はこういった。

『あなたは15歳から働いてきたのでしょう。 大卒の人たちより7年も早く働いてきたのだから、

早く退職して、のんびりすればいいのにと思うわよ』

 この一言が私の気持ちを楽にさせた。

そうだな、これまで、とにかく猛烈に突進するように生きてきたのだから、のんびりするのもいいかと思った。 彼女はその後も、時おり素敵なことを言っては助けてくれる。彼女はわたしに「楽」をあたえてくれる天使のような人のように思っている。

    【教育の原点を考える】が出版された

 書き進めていた原稿が出来上がり、出版されることになった。センター街のジュンク堂では平積みにしておいてくださった。

 書評も掲載されたので、いくつかを載せておきたい。

  書評 「教育の原点を求めて」 神戸新聞

書評欄=1991年12月15日(著者の顔写真掲載)

 「昭和59年春、「神戸暁星学園」と名乗る高校が、わずか18人の生徒だけで,しかも神戸市兵庫区(長田区の間違い)の雑居ビルの中に生まれた。

 進学制度からあふれ、行き場のない生徒を受け入れた。翌年には障害児や不登校児らを含む250人が入学、現在では三校舎に別れる規模になっているが,本書は創設の理事長である著者が「窓際のとっとちゃん」のトモエ学園を理想に学園づくりを実践した感動を呼ぶ苦闘の記録である。

 家庭の事情から15歳で住み込み店員として出発した著者は独学で経理事務所を開き、その後も養鶏場の経営、さらにはデザインルーム事務所を持ち、神戸フアッション・ソサエティー会長を務めるなど仕事を転々としながらも、「すべての15歳」に学ぶ機会を与えられる学校を作りたい、との念願を何の資金も後ろ盾もないままに創設に踏み切った。

 著者が一人一人の生徒,教師に向かい合ってきた姿勢と熱意は尋常ではない。トラブル、失敗の類もさらけ出した上で「送り出した生徒を見てください」と言い切れるのは「心の居場所をつくってあげたい」という一心から積み上げた営為からだろう。

 幾つもの具体例に触れられている中で、一つ紹介すると、一期生に「アルバイトのお金なら修学旅行でヨーロッパに連れて行こう」という口約束が現実にった。ジュネーブでの他のツアー参加者も交えた集いの中で、編入学生で、中学時代は「番長」だったというN君は自己紹介で「僕らはみんな落ちこぼれ、勉強ができなかったとか、やんちゃをして親や先生に迷惑をかけてきた。ここにいる理事長の作った学校にひろわれたのです」とさえいったという。なんと素晴らしい言葉だろうか。それに引き換え、世間が烙印を押す「落ちこぼれ」とはなんと嫌な言葉だろうか。

 校門圧死事件をはじめ、兵庫県の高校教育の問題が噴出する中で、同学園の営みは、現在の管理・選別教育の袋小路を逆に照らし出す形で痛烈に浮かび上がる。

 読者は、感動の波を何度もかぶるだろう。一読を薦めたい。(創元社 1500円)現在は絶版です。