中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(107)私を守ってくれたのはだれなのか

 (この随筆にコメントが届いています。1990年頃に書いた「教育の原点を求めて」を一冊でもよいのでほしいのですがと)書かれていました。メールでの返信を試みましたが、つながらずここでお返事を書くことといたします。残念ながら私も一冊しか持っておらず、絶版となっています。多くの方から同じような連絡をいただきますが、申しわけございません。

 岩永先生とは私が帰国後はご無沙汰しておりますが、彼の携帯番号などをご存じでしたら,078-771-2711までご一報いただければ幸甚です。)

 

 T君の件で、ある小学校の教師の問題に触れました。

前にも書きましたように、問題の教師はいつの場合も一部の教師たちです。ほとんどの教師は生徒のために真剣に取り組んでいるのです。何か学校で 問題が起こると、学校や教師集団を叩くけれども、それでは一生懸命に教育に取り組んでいる教師たちが気の毒です。

   しかし、真面目に取り組んでいる教師にも問題があるのです。以前に黒木君が言った「センコーはお互いに傷をなめ合っているじゃないか。センコーは俺たちのことより仲間のほうが大事なのだ!」という言葉は、的を射ているのではないでしょうか。

    彼は、小学校、中学校の体験から「センコーはお互いに傷をなめあっているように見えた」というのです。 15歳でこのような考え方を持っていることに驚かされます。

    一般社会では許されないことでも、お互いにかばい合い、 許し合ってしまうことがあるように思います。それだけ仕事が厳しく、お互いがいたわり合ってしまうのかもしれません。

     教師集団、医療集団によくみられるのではないでしょうか。黒木君は入学して間もないころにこれまでの小中学校での教師集団をみて、センコーは傷のなめあいをしていると感じていたのでしょう。

 一人の生徒を教師の責任でだめにしてしまうことがあるとすれば、それはその学校の連帯責任だという認識を世の教師たちに持っていただきたいのです。そうなれば担任の責任だとか、学年単位の責任だとかいう責任逃れができなくなって、お互いが戒め合うことになるでしょう。

  一部の問題の教師を 「労務」の問題」 と混同してしまうと、傷つき倒れてしまう生徒が増えるでしょう。 傷つく生徒が増えると学校が荒れ、他の多くの教師も疲れてしまうでしょう。

  小学校で失敗を重ねれば中学校は荒れ、教師はより管理を強めるでしょうし、成績順に輪切りにして高校へ送れば学校格差がつき、底辺校、困難校が生まれてしまいます。

 教師には「先生」という名に憧れた人がなるのではなく、子どもが大好きだという人たちになっていただきたいと希望しています。

 

《神戸暁星学園の教師たち》

私から教師たちに向けての「理事長通信」のなかの一部分ですが、この「理事長通信」はワープロ文章で合計150頁を超えております。言いかえれば、折にふれてそれだけの量の「教師たちへの私の願い」を書かざるをえない事情が校内にあったと言えるでしょう。

まず教師の採用の時から大きなハンディキャップを抱え込んでいるわけです。 高校教

諭免許の所持者を募集しますと、昭和63年頃までは一度の募集で50人から100人の応募がありました。

あまりに多いので、やむなく書類選考で約半分に減らします。写真を斜めに貼ってあるとか、書き直さないで修正液を使ってあるとか、必要な項目を書いていないような履歴書は、面接もしたくないのでお断りするようにしていたのです。

 

大学の有名度は一切選考基準には入れませんでした。出身学校は、その人の能力と関係がないことを、私の経験からよく分かっています。いい人材の確率なら出身大学によって違うでしょうが、中途採用や転職の場合は参考にならないと思います。

長時間の面接をしたうえで採用しますが、採用した教師がすべて優れているというわけにはいきません。その時期に採用したい教科の教師と、応募してくる教科の教師が合わない場合の方が多かったからです。社会科の教師はたくさんいますが、理数科、英語の教師の応募は少ないのです。 英語には外国人を3名講師として雇っていました。

採用したけれども心配で仕方がないので、研修会を特別に何度も持ち「理事長通信」を出して理念の徹底を図らなければならなかったのです。

特に開校二年目は大変でした。年度の変わりに移動するのなら 公立高校だってあるわけですが、年度の途中で辞めていく教師には、ほとほと困ったものでした。

そして、そのような教師に限って、心配しながら採用した「無理採用組」だったのです。それでなくても多い教師を配置しているのに、それ以上の予備の教師を採用しておくということは経営上できません。

毎年五、六名の教師が去っていきました。結婚や出産など、やむをえない事情で辞めていった人もいます。授業を二度行っただけで「身に危険を感じる」と言って去っていった中年女性教師もいました。

夏休みに入り、8月の給料をもらったうえで、8月31日に辞表を出した狡い人もいました。 

 「この学校にスパイに来ていたのです」 と辞める前に公言し、類似学校設立に加わった教師もいます。県の採用試験に合格したことを隠していて、4月の授業が始まってから 「急に県から辞令が出たので辞めさせてもらいます」と 担任の生徒を捨てていった人もいます。

これまでに辞めていった半数の教師は、生徒の迷惑などまったく考えなかった人たちでした。

それだけに、現在在籍する教師の大部分はその苦しさを耐えた強者と言えるし、生徒への大きな愛を持った人たちと言えるのです。

公立高校で起こった校門圧死事件など絶対にありえない自慢の教師集団だと書いたのも、私の偽らざる思い です。

しかし、多くの問題を今でも抱えております。 なぜならば、人は常に楽な方向へ傾いてしまうからです。私たちの学園が、これを読んで下さる人たちの想像を上回るような困難のなかにあっても、あくまで生徒を中心にしてこられたのは、   「建学の理念」に立ち返ることができるからです。 もし、教師の多数意見だけで決定をしていれば、非常な困難な状態に陥った時に、間違った判断をしていたことでしよう。