中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(106)私を守ってくれたのはだれなのか

            前回の続きです

   《女性先生による飛び蹴りで負傷》

 3年生の三学期が始まって間もなく、T君は目の横、こめみの所を大きく腫らして帰ってきました。

かなりひどい腫れで、内出血で黒くなっていたそうです。娘がT君に聞きました。

「どうしたの?」

「先生にとびけりされて、机の角で顔を打った」

「どうして、そんなことになったの?」

「僕がウソをついたと言って、いきなりけられた」

娘は、ことの真相を知りたいので数人の子どもから聞いたところ、

「T君の言った通りだけど。T君はウソなんかついてないよ」

とみんなが言ったそうです。

その件があってから一カ月ほど経ったある日、娘は私に一冊のノートを見せてくれました。そのノートは先生と家庭との連絡ノートでした。

そのなかに、だいたい次のようなことが書かれていました。

「いつもお世話になりありがとうございます。さて、今から10日前の○月○日、T君は顔を大きく腫ら して帰ってまいりました。事情を聞くと先生にけられ、机の角で打ったとのことです。どうしてけられたのかと聞くと、『僕がウソをついたからだと言うのだ』ということでした。私は、先生から何かこれについて事情の説明があることと思って待っておりましたが、まったく何の連絡もいただけず、時間が経ってしまいました。あれだけの大ケガをしたのですから、一言連絡をいただきたかったと思います」

そのノートに、<担任から次のような返事>が書かれていました。

「あのことは、あの時、すぐに教室でT君と長時間話をして、分かってもらったはずです。T君がお母さんにちゃんと説明をしたから、お母さんから何も言ってこられないのだと思っていました。謝れというなら、いつでも謝ります」

なんと悲しい話でしょうか。このような返事を書く先生は、どのような神経をしているのでしょうか。この先生は神戸市が正式に採用した教師なのです。

T君は二年連続して女性の教師でひどい思いをしているけれど、だから女性教師はだめだということでは決してありません。 素晴らしい女性教師も多いのですが、この問題を起こしたような教師がいては女性教師は駄目という誤解のもとになってしまいます。

この場合、T君のケガした場所はこめかみです。命さえ奪いかねないところです。顔を大きく腫らしているのです。その生徒を前にして長時間生徒と話し合ったというのは尋常な神経ではありません。そして ま「謝れというなら、いつでも謝ります」 とは、恐ろしい物言いだと言うべきでしょう。

私の学校の場合、生徒同士のケンカでケガをした場合でも、必ず医院へ連れていきます。そしてまた、 首から上のケガの場合は、必ずレントゲンやCTスキャナーで診てもらうことにしております。もちろん、すぐに親に連絡をとるのは言うまでもありません。

T君を飛び蹴りした教師は、現在も神戸市の小学校(当時の)教師として生徒とかかわっていたのです。 教育というものの本来の意味を全く理解していない教師だと断言しても良いでしょう。

娘は気が弱い人間ですから、連絡ノー トに抗議を書くのが精一杯だったようです。しかし、この3年生の出来事は、2年生の担任の「ウソツキ」発言を発端として、3年生になってもクラスのなかでT君が取り残されたことが原因のようでした。

T君の友だちに「Tはどんなウソをついたの?」と娘が聞くと、友人たちは、   「知らん、でも先生がそう言うたから」と言ったそうです。

この二人の問題の教師たちは「心理学」も「教育学」も「学習障害児(L・D)」のことも「情緒障害」のこともご存じないのではないかと思います。おそらく、子どもの心から離れたところでの教科研究に明け暮れているのではないでしょうか。

子どもの心を理解できない人は教師になってはいけないのです。 いたずらに人の師となるものではありません。

多くの生徒を見てきた私から見て、T君は問題を抱えてはいるが問題児ではありません。3年生前後で自我に目覚めているところからも、情緒にたいした問題もないようです。家では、弟とよくケンカをする以外は、とてもいい子です。勉強はあまり好きな方ではないようですが、私の小学三年生の頃よりは少なくとも算数はうんとすぐれていますし、創造力にも富んでいるようです。私はT君のことを何も心配しておりません。心配なのは、 親の過保護と無知な教師によってゆがめられることだけなのです。それさえなければ、T君は大きくはばたくことでしょう。 そのころ、須磨から兵庫にある私のマンションまで何時間もかかって歩いてきたことがあります。

T君は四年生になってからは、素敵な女性教師に巡り合えたようです。とてもクラス運営の上手な先生のようで、毎日明るい日々を送っていました。

(古い話ですが、事実なので紹介しました。彼は現在、経営の一端を担う重要な職務について活躍していて、2024年の春まもなく子供も生まれます。以前に書いた、小学生5年で神戸からシンガポール経由でオーストラリアのパースまでやってきたのも彼でした。発達障害の子供の多くは、3年5年ほどの遅れで精神的な大人へと成長していくものです)