中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(90)私を守ってくれたのはだれなのか

《私の心に残る不登校児のうち、さらに二名を紹介しよう》

中田君は神戸からかなり北へ行った氷上町の出身だった。 氷上町から毎日通学するわけにはいかず、宝塚市の姉の家から通学していた。

さめた感じの生徒で、どんなに優しい視線を彼に送っても、彼からは冷たい視線しか返ってこないのだった。 彼の一年生の時の担任は松田先生だった。 担任の懸命の努力で、何とか進級にこぎつけた。

2年生時の担任は、従順な生徒にはいいのだが、自分に反抗してくる生徒が許せないタイプのようだった。

ある夜、中田君のご両親から私の家に夜間に電話があった。

『先生、今日の個人懇談の席上、 担任の先生から 「中田君は、学校をやめて他の道を選んだらどうでしょう」と、進路変更を催促されたのですが、理事長さんはどのように思われますか』 と私の意見を求めてきたのだった。

『進路変更を本人のために奨める場合もありますが、それは、本人が勉強より、働く方が好ききだと自分から申し出た場合で、出席不良、態度不良で進路変更を奨めるということは、私の理念に反します。 明日、担任とよく話し合っておきましょう』 と答えたが、教師による裁きが始まっていることに気がついて悲しかった。

担任によると、中田君の出席不良を初めは軽く注意するだけでしたが、 ますます出席状態は悪くなるし、注意するたびに態度が悪くなり、 最近では出席状況以上に態度不良児だということだった。 そのうえ、両親の学校への不信感が強く、両親とも話し合いが充分にできない状態だという報告だった。

中田君本人に会ってみることにした。しかし、私と向かい合って座った彼は、ソファーに肘をついて横たわり、   「何か用か」 とでも言いたそうな態度で、それはもう以前の中田君の姿ではなかった。

入学した頃はそのような態度をとる生徒は少なくないがが、2年生の二学期に入ってから、入学時より態度が悪くなるという生徒は希なのだ。

私は、中田君をこのようにさせたのは教師の側に責任があると判断し、 担任だけに任せないで、一年生時の担任の松田先生に中田君のことを依頼した。

念のために中田君の入学時の作文を読むと、中学校に対する不信感が強く出ていたしたし、両親の作文のなかにも、中学校の内申書のなかにも、中学校への「不信感」が書かれていた。中田君の不登校問題について、中学校側と両親との間に何らかのトラブルがあり、中田君自身も学校への不信を深めたのだと思う。

 

不登校の原因を、生徒や親は学校側のいじめ対策の不備にしてしまいがちだし、学校側は生徒の怠学を原因にしてしまう傾向がある。

しかし、不登校はもっと根深い問題であり、本人を含め本当の原因が分かっていない場合が多いものだ。 しかし、親と学校がお互いに自己の主張だけを繰り替えし、本人を忘れてしまっていては、もっと難しい局面へと本人を追い込んでしまうのだった。

中田君は中学校時代、ほとんど出席しなかった。それに比べると、現在はよく出席していると思うとよいのだが、 教師は中田君のためを思うあまり出席数にこだわり続け、注意を繰り返して、彼の心を傷つけて しまったことに気づかなかったのだ。

担任は、だんだんと態度が悪くなる彼に対して学校をやめさせようとしたようなのだ。どんなに研修を繰り返しても、こういう教師が残ってしまうのだった。 自分の都合で生徒を裁いてしまう。

生徒を一人の担任に任せていると、このような間違いが起こってしまう。学校という組織の最も恐ろしい部分かもしれない。

 

中田君の態度はその年、それほど改まるということはなかった。学年の途中で担任を替えることも、クラスを替えることもできなかったからである。当然のことのように進級会議にひっかかった。彼を進級させては、今後、 他の生徒の出席状態が悪くなるし、一生懸命出席した生徒に申し訳ない、教務規定通り留年にすべきだという意見が大半を占めたのだった。

開校3年目の2月のことであった。 職員会議の留年決定に対して強権を使う形で30名ほどの仮進級(進級後の出席状態に一定の制約をつける)を認めさせた私も、中田君に関しては留年もやむなしと考えていたのだが、その時、松田先生が

『今後のことは自分が責任をもって彼の面倒を見るから、今回は仮進級を認めってやってほしい』と、全教師に懇願し、同意を得て仮進級とした。

中田君はその後、出席率をどんどん上げて松田先生の期待に応え、卒業し、専門学校へと進んだ。 その彼から次のような報告が届いたのだった。 「先生、専門学校へ入学してから一日も休んでないぜ!」 と。 人は成長し続けることを、彼も証明してくれたのだった。