中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(79)私を守ってくれたのはだれなのか

《いよいよ二年目に向けて願書受付が始まった》

  昭和60年2月1日。 まだビルの改造が終わっていない新校舎で二期生の願書受付を始めた。危険な綱渡りのようではあったが、校舎を確保し、教室もほぼ完成し、外装工事に入っていた。

 入学案内に書いた、二期生への呼びかけのことばは次のようなものでした。

【よびかけ】 

人生にはいろんな生き方がありますが、これしかないという生き方はありません。それを「人生」っていうのです。 あなたはどんな人生を送りますか。 立派な人生とは、ほかの人より良い学校に行き、大きな会社に入り、人より早く出世することではありません。 人より有名人になることでもありません。 君が、どれだけ世のため人のために、なにができるかということが大切です。 有名になっても、金持ちになっても、人の役に立たない人間では立派な人とは言えません。

 社会に役立つ人間になってこそ、人が認める立派な人なのです。 この学校は、四年生でスタートしましたが、法律が改正され三年制となり、全日制高校と同じになります。 一生懸命に学べば多くの知識が身につきます。 しかし、点数稼ぎの勉強は時間のむだだと言えるでしょう。 生きた勉強とは、ものごとを知るだけではなく、応用する力、考える力を身につけることなのです。  現在学習が遅れている人も、気にする必要はありません。 本校を卒業するまでに、考える力と、応用する力を身につければ、社会に出て活躍できるでしょう。

  人生は旅です。 新幹線に乗っていち早く目的地に着く旅よりも、鈍行でゆっくり楽しみながら、見る力、考える力を学ぶことで、地方のさまざまな触れ合い、景色の変化を楽しめる旅になるかもしれません。 旅をしながら、自分とは何かに気付くことも大きな収穫になることでしょう。 本当の自分とは何か、探してみようではありませんか。 人より遅く気がついて大きく成長する人のことを「大器晩成」と言います。 君もそういう一人かもしれません。自分のための旅のために、この学校で学んでください。

              《 願書受付初日に50人の出願があった》

   入試方法も一存で決めた。

  • 受験した生徒と、その保護者と、一時間以上の面接を行い、成育歴なども含めて可能な限りのことを聞き取るとともに、この学校の方針を理解してもらうことに努める。
  • 原則として、不合格者を出さないことを旨とし、低得点者に対しては、なんども、再試験の機会を与える。
  • 小三から中三までの範囲を、順に出題し、生徒が、どの教科のどのあたりでいき詰まったのかを察知できるようにし、再試験までに行うべき補習の仕方を指示する。
  • (一)と(二)を可能にするために、日曜日から、土曜日の間に出題した生徒が日曜日に受験できるようにする。(毎日曜日を受験日とする)

  これらを実行するには、教員にも大きな負担がかかり、わたしにはとんでもない負担だったが、この方法は今後も続けることにした。

 受験した生徒順に面接日と、時間とを決めていった。テストの点数にかかわらず、受験生全員とその保護者に面接を行う。 この方法は毎年続けたのですが、気管が弱くこの時期に咳が多発するので大変でもあった。

  面接は、原則一時間だが一時間半に及ぶことも多かった。一度に三組ずつ六人と面接したので昼ごはんが食べられない日も多かった。

 面接と再テストの答案をみれば、その生徒が抱えているさまざまな問題が浮かび上がってくる。国語の短文が書けない生徒は情緒面の問題を抱えていることが多く、当然、数学の文章問題も解けません。

 母親には、言葉を選びながら質問をするが、それとは別にアンケートも渡してあった。妊娠時から分娩時までにあった異常についての詳しい質問をしていた。

鉗子分娩とか、へその緒が首に巻き付いて出産したとか、仮死状態だったとか、三歳児までに高熱を出したことがあるとか、強いひきつけを起こしたことがあるなどを入れると、出願者の半分を超える人数がそれらに該当した。

入学後は、そういうことも踏まえて、彼らを観察したが、仮死状態とはへその緒が首に巻き付いていたという場合には、明らかにLDと関係が深いと思われた。

 家庭内教育についての質問では、約5パーセント程度が門限を決めている程度で、家庭内での仕事の役割は、ほぼ全員が行っていなかった。家庭教育の貧困について改めて認識したのだった。

     《生徒自ら自分の可能性に気付いてほしい願い》

  《制度に縛られないで生徒とのための手造り教育をしたい》

  私がこの学校をつくろうと決意したのは、多くの将来性のある人たちが、高校入学制度の中で切り捨てられていることに反発を感じたからだった。 100人のうち6人が切り捨てられることになっているが、その中にはうずもれたダイアモンドも含まれている。 切り捨てないで、一人一人を磨いていけば、社会に役立つ人材が多く巣立つだろうという確信に似た気持ちを持ち続けていた。

  人間が生まれてくるまでにもさまざまな関門があるものだ。 人間は一律に生産される工業部品とは違って多くの関門を乗り越えて育つようにできている。 一人として同じ人間はいないはずなのだ。 しかし、制度というものが作られるときには、人間は一律したものとして扱われる。 そこに矛盾が生じ、差別が生じ、大きな格差へとなっている。

  入学を希望する生徒たちには、それぞれにさまざまは事情があって高校入試に失敗しているが、そのことでその生徒の人生を切り捨ててよいはずがない。

 なんとかして、自ら気付き自ら成長していくチャンスを掴み取れるように育てたいという願いが私の中には強烈にある。 学歴社会の中で、それを乗り切ってたくましく生きる力を生徒たちに植え付けていきたい、自分の中にある「可能性」を自ら見つけてほしいのだ。