中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(58)私を守ってくれたのはだれなのか

  「工場を増やし増産体制に」

 ジャングルシューズがベトナムの米軍の戦況悪化と共に生産が減ってきていたが、別の会社から高級サンダルシューズの注文が入り始めた。手順は多くなった分、面白みも多いので、乗り換えていった。

  生穂の工場だけでは間に合わないほどになり、内職仕事をしていただいていた塩尾の元・風呂屋さんの浴場部分全部を借りて塩尾工場とした。そのために、材料の移動など一挙に作業量が増え、睡眠時間が3時間前後という日が続いた。

 ジャングルシューズの場合とちがい、嵩が小さいので袋に詰めて「淡路貨物」と いう輸送会社の定期便で送ることが可能になった。朝一番の便で送るために、夫婦で徹夜をして作業をし、わたしが輸送会社まで届けるようなことが多くなっていた。

 一か月間のミシンの修理費がかさむようになっていたので、このころには、よほどのことでない限り、自分でミシンの修理をすべて夜間にやっていた。

   《銀行員ののミスであと一歩ですべてを失うところまで》

 六月末のこと(話は多少前後するが)近畿相互銀行の担当者がやってきて、今月末の融資はできないことになりましたという。

 相互銀行は積立金をして、それに見合って融資をする仕組みだった。担当者には半年前から、試算表も渡し、六月の末に融資を受けることを依頼しており、了解されていたのに、手形決済のわずか十日前に融資を断ってくるなど思いもよらぬことだった。手形を不渡りにすれば、これまでのすべてが水の泡になってしまうだろうと思うと、居ても立ってもおれない心境になった。「三〇歳にして立つ」を実行してきたけれど、わずか一年半で挫折かと思うと悔しくて情けない。

   神戸の長田に大きな縫製工場を持っている川原さんが、神戸では職人が集まらないので、地方に進出を希望していることを知っていたので、工場と住宅と、すべての機器や什器も含めて買い取ってくれないかと話を持ち掛けた。彼はこの話に乗ってくれて月末の午後三時までに現金を携えていくと確約してくれた。

 不渡り手形を出して何もかも失うまえに、すべてを投げ出し、一からの出直しを決意したうえで、再出発のための資金確保を兼ねた必死の行動だった。

 それにしても、社会的責任のある銀行が、寸前になって融資を断るとは許せなかったので、洲本支店まで出向き支店長に面会をもとめた。支店長室に通され

『今日はどのようなご用件でお越しになったのでしょうか』

『実はずっと担当している坂口さんが先日来られて、融資の件は会議の結果お断りさせていただくことになりましたので、お伝えに来ましたとおっしゃったのです。相互銀行は中小企業や零細企業とお取引が多いように思っております。今回のように、半年前から、資金繰りのための試算表も提出し、融資の了解もいただいていて安心していましたのに、寸前になって融資を断るということは社会的な責任があるのではないでしょうか。そういうことをされると、たいていの企業は潰れてしまうのではないでしょうか。ご再考いただけませんか』

 支店長は女子行員を呼び「奥山縫製のファイルを持ってくるように」と指示し、ファイルに目を通し

『大変申し訳ありません。坂口からは稟議書も出ておりませんし、どうして融資をお断りしたのかわかりません。資料を見る限り、問題なくご融資できます。これはすべて私の責任です。いま直ぐに善処いたします』

 そして、融資のための書類に記入しているときに、「奥様からお電話です」と言われて立ち上がった。

 『川原さんがお見えになっています』という。

約束より二時間も早く来てくださったようだ。電話を川原さんに代わってもらい、一部始終を話し、申し訳ありませんが銀行の手落ちだったようで融資が決まりました。 どうかご了解くださいと申し上げて帰っていただいた。

 銀行でも、こういうことが起こるものだ、坂口氏にそれまで迷惑をかけたこともないが、彼が自分の手落ちをすり替えて、虚言を言ったようだ。何ごとも諦めてはいけない、最後までくらいついていないと、銀行員でもうそをつくのだという教訓を得たのだった。

   《従業員旅行》

  親会社が求める納期に合わせることが絶対的であり、こちらの要求は訊いてもらえない。輸出品であるのだから、船の出航日がきまっていて「そちらがお祭りであろうが、こちらには関係ない。船は決まった日に出ていくのだから」と言われる。

 イエスかノーかという取引関係であり、そこがつらいところであった。従業員が休んで生産が遅れると、そのしわ寄せは二人にかかってくるのだった。だからといって、少なめに引き受けるわけにもいかない。少なめにすると、従業員は、仕事がなくて暇なら、ほかの会社に移ると言い出す。よく働く人たちだが、なによりも収入が欲しいのだ。田舎では現金が入ってくる仕事は少ない。なによりも現金が魅力なのだろう。それを知っているから、仕事を与えようと受けすぎてしまうと、辛いしわ寄せをうける結果にもなる。

  そういう中で職場も増やし、従業員も50人ほどになっていたので、慰労のために大型観光バスを雇い、天の橋立観光に行った。その時には、以前は国鉄の神足に、当時は阪急沿線の長岡天神に住んでいた母にも連絡し、前夜から来てもらって天の橋立観光に連れて行った。

  仕事の材料は、神戸の会社まで取りに行かなくてはならない。3日に一度は、仕事場を離れることになる。神戸に出かける日には、十分に準備をしてから、出かけるのだが、電話がかかってきて、催促があると、塩尾の工場まで妻が行っていたようだ。そのころ妻は身ごもっていた。

  <産婆さんが、町でわたしを呼び止めて>

『あんたの奥さんはめちゃくちゃや、バイクに乗ってすごいスピードでぶっ飛ばしていますよ。あんなことをしていたら、ただでさえ早産のけがあるのだから、絶対にやめさせてくださいよ。厳しく言ってやめさせないとだめです、これで三度目の注意ですよ』と言われた。

 これまでにも産婆さんの言葉を伝え、そのたびに注意してきたのだったが、相変わらず頓着せず無茶をしているようだ。

 帰宅してその話をしてみると、うんうんと素直にきいてくれるのだが、本来が丈夫で仕事好きなのを自慢にしているだけに、忠告は馬に念仏だった。

 残業をして、徹夜になりそうな時など

『ちょっと20分ほど寝てくるわ』といって、寝室へ行ったかと思うと、きっちり20分で戻ってくる。私の場合は、そんなことが出来ない。いったん眠ったら起きられない。体質の違いが結婚して数年でよくわかっていた。めったに喧嘩をするとはなかったが、けんかをすることがあるとすれば、それは体質の違いが原因だった。

  そう言う日々がつづいていて、とつぜん産気が訪れた。産婆さんが駆けつけてくれて取り上げてくださった。双子の男の子であった。一人は死産だった。もう一人の子は入院させたが翌日に息を引き取った。この世に生を受けたのだからと思い、一夫と名付けて届けた。昭和43年4月13日だった。