中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

随筆自伝(47)私を守ってくれたのはだれなのか

  《魔物だった少女》

厳しい寒さが続き、少しでもいいから現金を得たいとアルバイトを探すが(高倉大根を引き抜く作業)以外には見当たらない。この辺りは農家ばかりでアルバイト先も見当たらないのだ。

一月に入って北海道から一人の少女がやってきた。炊事の叔母さんの親戚の娘らしい。4月から東京の高校に入学するために叔母さんが預かることになったのだと紹介された。まだ中学校3年生なのにどうしてこの時期に来たのだろうと不思議だった。 お世辞にも美人とは言えない子だった。

日常の作業は炊事の手伝いをするだけなので広い農地に出て作業をするより私にとっては楽だった。 祖母の手伝いをしていたことが役立って包丁を使うのが得意だった。

授業も面白い。わたしも二年に進むためには、なんとかして日常品や少々の服や靴なども買いたいが、ない袖は振れないという言葉通り、どうにもならなくて、この先が見えるばかりである。 さんざん悩み苦しみ、迷いにまよった挙句に、退学することを決意した。

退学することは賀川先生や岩塚先生の期待を裏切ることになる。これまでの恩情を忘れるわけはないが、事態は切羽詰まっている。 どう考えても、この先の目安がつかない。 現実を考えるほどに、わたしはどこまでも孤独だった。

じぶんで生きるためには自分でふんばるしかないのだ。 だれかを当てにせず、わが身は自分で守るしかない。二か月前に成人したことでもあるし、これからが、わたしの大人としての人生が始まるのだと、決意して周辺の人たちにもその旨を伝えていた。 一月の末に事務局には二月五日に退学させていただきますと書類を提出していた。 大野さんは残念なことだが、しかたがないことだなといって下さった。 君は大丈夫だよ、牧師になれなくとも牧師以上の仕事ができる人だと思っていると肩をたたいてくださった。

《最後の夜に悲運がまっていた》

明日の夜行で大阪に戻ると決めていた日、坂を下り駅までのけっこう長い道のりを歩いて切符を買いに行った。切符代金にも心配があったからだった。出かけるときから雪が降り始めていたが、坂を登っていくごとに雪が深く降り積もっていた。 もう少し坂を登ると高倉台となり学校の敷地内になって平坦地となる。 雪を踏みしめながら登っていると横合いから、わたしの名を呼びながら飛び出してきた女性がいた。 周囲は街灯もなく暗闇である。いきなり私に抱きつき、わたしを押し倒しズボンを脱がせて覆いかぶさってきた。突然のことで瞬間のことでもあったので明確な記憶にかけているが、わたしは少女に犯されたのだった。 射精したらしいことは自覚したが挿入した記憶は全くなく、直ぐに寮へ戻り大野先輩にこの事実を報告した。

 えらいことになったナ、君はすでに退学届けを出している身分だから大ごとにはならないように僕から教授や事務局にも説明するが、相手の女性の話も聞かねばならないと言った。 炊事の叔母さんの説明で、私が言った通りらしいと大野さんや教授にも言い、実はあの子は札幌でも事件を起こして退学になったので私が預かることになったのです。とんだ間違いを起こして申し訳ありませんと言って下さったそうです。

  それでも教授会が開かれ問題を討議したらしいが、明日の夜行で大阪に帰るのを許可する。問題の少女は故郷に帰すことにするということになった。 私の長い人生には、間違いも多いが、わたしが被害者となったのはこれが最初だった。 後味の悪い体験だが、恥を忍んで書き残した。わたしの20歳と3か月に童貞を失ったという恥ずかしい記録である。私の唯一のプライドをうばったひとのは覚えている。池田さんだ。

彼女は水商売でしか生きられないだろうと思った。

  《どうやって生きていくのか》

  大阪にもどっても行くあてがない。優子叔母に会いに行こうと思ったが、いまの身では心配をかけるだけだから、ちゃんと落ち着いてから挨拶にいこうと考えた。トランクをロッカーに預け、とにかくあちこちを歩いて店の前に「従業人募集」の張り紙をたよりに歩いた。三日も歩くと靴がすり減ってくるし服も汚れてくる、着の身きのままのうす汚れた若ものにしか見えないなと、ゴカイ百貨店へ行き上着を買った。安物売りで知られた店だったが、安くて良いものだった。

(後々分かったのだけれど、なんと紙の繊維で作られた服だったが結構長持ちしたし柄もよくみんなからほめられたものだ)

 農伝神学校にいるときに手紙をくれたM子さんという女性がいた。手紙は二度いただいた。淡路島で伝道大会を始める前に志筑の教会で出会った人だった。なんとなく仲良くなり、ある日に初デート?に誘われた。どこかで待ち合わせ、いまでは津名中学校になっているあたりの裏山へ行った。よく晴れていて景観がよかった。 彼女は、二重の重箱いっぱいに料理を詰めてきていた。すべて自分で作ったものだという。家庭的な人なのだなというのが第一印象だった。とにかく家庭的という言葉に飢えていた頃でもあって、印象も悪くなかった。たくさん話し合ったが、その時はどちらも身の上話はしなかった。私がまだ18歳のころだった。

 М子さんは、わたしより二歳上だが学年的には三学年上であり、旧制の女学校を卒業していた。 いただいた手紙にも、わたしからの返事にも、あまり信仰的なことには触れず、それぞれ最近あったことなどを書くにとどめるような付き合いだった。

 二通目に来た手紙に、最近は大阪の難波近くの洋裁店に勤めている旨が書かれていて、住所が書いてあった。(のちにアメリカ村と呼ばれ繁盛した辺りである) トランクを預けていた南海電車難波駅の近くでもあり立ち寄ってみた。

  一年半ぶりの再会だった。この店で働き始める前には、大阪大空襲に出くわした優子叔母のアパートの近くの上六に近い「伊東洋装学園」で学び、卒業後は学園内にある「伊藤欣也デザインルール」で働いていたのだった。当時は伊藤欣也先生と言えば一世を風靡していたものだ。仕事が終わるまで外で待ち、いろいろ喋ったがおぼえていない。 住吉公園駅の近くに親戚筋の家でお世話になっているということで、見送りがてら住吉公園駅まで行って別れた。

  実は大阪に戻ってから、ずっと野宿していたが、住吉公園で野宿するほうが安全だと思い、三月初めまでの約一か月間の夜はそこで過ごした。ひるまは北区、南区などよく知っているあたりを「張り紙」を捜して歩き、新聞に出ている就職欄を見て探した。

今ならいくらでもある働き口がなかった時代だった。

 求人しているのはパン屋さんが多かったが、話を聞いてみると毎日朝三時に起きての作業らしいと知り、自分には不向きだと思った。 キャバレーの呼び込みならその日からでも働けただろうが、水商売には絶対にかかわるのを避けようと思っていた。 当時は、現在のように簡単に仕事にありつけない。ちゃんとした商店や会社では保証人が必要だった。

  二月の厳しい寒さの中で、どうして野宿など選んだのだろうか。やはりプライドにこだわったからだと思う。どこでもよいからというのではなく、「職を手につける」職場を選びたいと、なぜか思っていた。職を手につければ生きていける、その日かぎりのような仕事はしないぞと考えていたのだろう。М子さんにもなんどか会ったが、どこに住んでいるのと聞かれることはただの一度もなかった。

  公衆便所が公園の中央に置かれることはない。住吉公園の東は死近いところになっら。便所で寒さをよけていると匂いがきつく鼻を衝く。当時の便所は「ドボン」と呼ばれる汲み取り式便所である。広大な公園というのは、寒さを避けられない。

 夕方から家々に灯る灯りは「暖かい感じがした」それぞれの家庭の温かさも伝わってくるようだった。

 よる八時ごろになると、周囲の家の灯りが次々と消えていく。あと5つの灯りが残っている。消えるなよ、いつまでもついていてくれよと、電灯が一つでも残ってくれと祈る気持ちのなかで、また一つが消える。最後の一つの灯りが希望の星のように思えて、胸が苦しくなってくる。 あの頃は、あの辺りはみんな平屋だった。空襲を受けなかったようで、多くの家があり、たくさんの人が住んでいた。あの灯りの下には暖かい家庭があるのだろうな、と想像し、明かりを見ただけでとても幸せそうにおもえた。あの頃のことを思い出せば、今でも涙がにじみ出てくる。 まいにち素うどんいっぱいのやりくりで体力も衰えてきている。

  二月の終わりが近づいたころ、大野さんに聞きておきたいことがあって、食堂にいるだろうと思える時間に農伝神学校に電話をした。大野さんは、電話口で「どこにいるんだ、連絡のしようもなく、困っていたところだった」という。きいてみるとハガキが届いていて、2月13日午前10時に優子叔母が亡くなったということと、家を引き払いますということが書いてあるという。差出人はハーさんからだった。

  一瞬で、すべてが崩れ去っていくような思いにとらわれたて愕然となった。思ってもいなかったことだった、優子叔母は、まだ45歳なのだ。わたしは5年前に父を亡くし、いままた育ての母がなくなったという。「いつまでも守ってやるからな」と言ってくれた人も逝ってしまった。隠岐の島からの帰りに寄ればよかった。挨拶に行けばよかったのだ。つまらぬ遠慮をしていた私はバカ者だと、嘆き悲しみ、苦しんだ。

  悲しみとともに、まいにち「素うどん」いっぱいで食いつないできた体の異常に気がついた。寒さもこたえたのだろうか、やせて、疲れやすく体力の限界を感じた。このまま、野垂れ死にしてしまうのか。これまでの努力も水の泡となってしまうのか。何のための20年間だったのだと自問自答した。

どこかで歯車が狂ってしまったいるこれまでの人生を見つめなおし、20年間に蓄積したものを無駄にしないように、もういっぺん一からやり直そうと考えを改めた。