<父の再婚と、大阪への転校>
年が明け、昭和17年2月になると父が「大阪で、三人で暮らす」と言い出し、
ウイ朗は、国民学校二年生の一学期を大阪の学校で迎えねばならないことになった。
難波から住吉方面へ向かう広い国道に面した角にある学校で、地下鉄の花園駅からも
近い三階建ての大きな学校で、以前から見知っている学校だった。
父が一月に、祖父の遠縁の娘と再婚したことは知っていた。
大阪にいた内輪だけが集まってお祝いをしたそうだ。
再婚相手である義母には、とうぜん母と呼ばねばならないが、想像していた人とはかけ離れていた。これまでに一度も出逢ったこともないタイプの人だった。父に促されても、お母さんとは呼べなかった。
父はとてもハンサムで、祖母などは「映画俳優の坂東妻三郎よりも男前だよ。お父ちゃんに比べるとお前はダメだな。母親似なのかな」と嫌味を言われたことが何度もある。
父は、再婚相手について、祖父母から「都会の女はあかんよ。田舎の娘にしとき」と強く言われたのだろう。見合いもしてないようで田舎娘と結婚したようだ。
ある朝、父は「こんな臭い飯は食われへん」と義母に向かって「おまえは化粧した手で飯を作っただろう、化粧したらよく手を洗え」と叱っていた。
たぶん、義母は化粧というものを、これまでにしたことがないのではと思った。町に出かけた経験もないのだろう。結婚することになり山奥から出てきて、大阪という大都会に出てきてドギマギしているようにみえた。 のちに義母の実家に行ったことがあるが、本当に山奥の家だった。
あるひ、ぼくが高熱を出したことがあった。父が「何を食わしたのか」と問い、義母が「おからの炒め物」と答えたとたんに父が叱った。その時は、高熱の子供にどうしておからの炒め物がいけないのか、わからなかった。義母は父の叱責に怯えていた。
放課後は近くのそろばん塾に通い、路地では近所の子供たちとよく遊んだ。落語に出てくる「ちょっと醤油を切らしたさかい、貸してもらえまっか」と言えるような気さくな長屋だったので、寂しいことはなかったが、義母にはつらかっただろうとおもえた。
<またも転校生に>
二年生の一学期が終わり、夏休みには定期券を買ってもらって南海電車の浜寺公園駅までいき、海水浴を楽しんでいた。
昨年に溺れたこともあって、「あそこは遠浜だからあまり心配はないが、沖へは行くな。ヘソ辺りまでだぞ」と何度も念を押した。
砂浜が広く、水際で砂でいろんなものを作って遊んだ。楽しい場所だったが、貝殻が多くなんども足を切ったことが忘れられない。
八月も半ばをすぎたころ、二学期から志筑の学校へ戻れと突然にいわれたが、訳の分からぬまま、一人で淡路島にもどった。
一年生のころにやっと友達になった生徒が少ないクラスに、編入生として紹介された。
一学期しか離れてなかったのに、編入生として先生が扱ったことがしゃくだった。
大阪の学校では友達は作れないまま、名前も覚えられないままだったが、初めて給食と言うものを経験した。 毎日「コッペパンと牛乳」が出されていた。
志筑の学校に、二年生の二学期から戻り、弁当が必要になった。ご飯の上に梅干し一個が載っているだけの「日の丸弁当」と言われるものだが、「コッペパン」よりは腹持ちが良かった。
またも転校だ
正月を過ぎてすぐに、大阪へ戻って来いという。二年生で二度目の転校になった。私は大阪で生まれ、育った。淡路島ではまだ一年半も住んでいないのだから
大阪に呼び戻されるのはうれしい。父と語らうことはほとんどかかったが、父の匂いが好きだった。香水の匂いではなく、父独自の匂いを私の鼻が覚えている。
だから、父の来ていた服の匂いを嗅ぐ習性がついていたようにおもう。
住宅街の中の学校
今度の学校は住宅街の中にあった。ここで二年生の三学期を迎えるのだ。
父の住まいは、この前の長屋から住み替えていて、門構えの敷地内にあるアパートで、門の正面の二階の部屋だった。
当時のアパートというイメージとはかけ離れていて見かけもきれいだった。二間だけで、広くはなかったが、窓から門まで見通せて開放感があり気持ちの良い部屋である。
転校生として、慣れない学校生活で楽しいとはとても言えない。給食ではコッペパンが出なくなり、脱脂粉乳を溶かせたものがコップ一杯配られた。
父に給食の話をすると、戦争の余波が大きく国民にのしかかっているのだろうという。
日本は厳しい状況になっているらしい、これからどうなるかわかったもんじゃないと。
三学期は志筑の学校に戻される。
どうも義母が妊娠したようだとわかる。僕の弟が生まれるのかと兄弟のない身としてうれしい思いだった。
昭和一九年一月に志筑に戻された。学校だけではなく、家庭内でもますますつらい立場となっていた。一年生はいたが、二年生となると二度も大阪に戻って、こっちにやってきた。おまえは、ここの家族じゃないぞという雰囲気が以前に増して強くなっているようにも感じた。父は、ぼくがつらい思いをしていることなどに気付いていないのだろうとおもった。
三年生の担任は石上先生だった。生徒たちは当時の人気物のエノケンと陰で呼んで親しみを感じていた。
水汲み仕事の大任を任される
三年生になってからのある日の放課後、家に戻ると祖父から「これから毎日、井戸の水と池の水を運ぶように」と言われた。
水汲みは、祖父が一番しんどいと言いながらやっていた仕事だった。
台所には、二つの甕(かめ)が置かれていて、小さいほうは飲み水用であり、大きなほうは使い水用だった。
飲み水は井戸から運び、使い水と風呂の水は、池から汲み上げてくる。
井戸は、坂を下り左に折れて二百メートルのところにある井戸水を使う。井戸には、大きな滑車に太いロープが吊るされていて、ロープの両端に水桶が括りつけられている。ロープを手繰ると水の入った桶が上がってくる。
家から担いでいった木桶に水を移し、天秤棒で担いでみるが、身体が潰されるほど重くて担げない。水を半分にして、やっとのおもいで担ぎ、何度も休みながら坂の下までたどりついたが、この急な坂を上がるのかと思いながら見上げる。
坂の真ん中あたりの、やや平らな所で桶を降ろして休む。ふたたび担ぐが、家に近づくほど坂が急になっている。
身長が低いので前側の桶が道に当たって進めない。天秤棒を斜めにすると肩の上を滑って桶がひっくり返りそうになる。担いの紐を掴み、必死のおもいで坂をのぼり、やっと台所の飲み水のカメに水を移し替えた。
しかし、カメの中を覗くと水はわずかしか増えてない。もう一度行くしかない。
使い水は池から汲む。満水のころは大きな柄杓で汲む。腕の力が弱ければできない仕事だ。
夏季と秋は、池の水位が下がっているので、坂の下の石橋と所から池の下のほうまで降りて行って汲み取る。きれいな水を汲み取るのもめんどうだが、降りて言った分だけ担ぎ上げるのも大変になる。
使い水は毎日二荷が必要だ。風呂は二日に一度沸かすことになっている。
麦の取り込みの五月と、稲刈りの秋は毎日沸かすことになっている。
長州風呂と呼ばれる風呂桶には三荷の水が要った。担ぐ水桶六杯分だ。その上に追い水用に一荷分を置いておかねばならない。風呂の日は、飲み水一荷、使い水二荷、風呂用に四荷の七荷(木桶一四杯分)を、急坂を運び上げなくてはならない。
思い出すだけでも辛い。重労働は水汲み作業と、クレメギ(土の塊を壊すという意味)作業だった。