中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(90)

この回から、しばらくは「教育の原点を求めて」の原稿の一部を
使って掲載しますので、記述がこれまでのものと一部ダブっている
ところがあります。
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 新しい旅立ち・ヒョウタンからコマ・あるファミリーレストラン
 
昭和五十八年秋のある日、私は、あるファミリーレストランで、
ケーキを食べながらコーヒーを飲んでいました。以前は、会社の
近くにあるこのファミリーレストランで不動産の情報交換を数名の
業者たちとよく行っていたものでした。
数年前に建設会社の専務に迎えられた関係で、私は不動産という
業界を初めて知りました。その道、数十年の社長も、私の不動産
を見る目は確かだと言ってくれるほど、まったく初めて入った業
界ながら、何か匂うように物件の価値、将来性が分かるのです。
ある意味で当てものをするような楽しさもあり、かなり手広く不動
産業界の人達とも交流がありました。この時の交流がいろんな意味
で学校作りと関わってくるものですから、いろんな人たちとの交流
を大切にしておくということは、その人の人生の流れにも大きく関
わりがあることだと思います。
その頃には、建設会社を辞めようと決意していました。ある建売住
宅の建設をめぐって社長と意見が対立していました。一代で大きな
建設会社を築いた社長はワンマンを絵に描いたような人でしたが、
それだけに信念を持った人でした。
しかし、以前は人気のあったその会社の住宅作りは、今では古い考
えだとしか私の目には映らなかったのです。三畳、四畳半の小さな
間取りで部屋数だけ多く、そのうえ、一部屋ずつ、茶や紫や青の綿
壁で塗ってある という作り方は、私の美意識ではとても耐えられず
、私を専務として招いて下さった期待に応えるためにもと、新しい
生活パターンに合った住宅造りを進言していました。頑固な社長で
すから、口では反対していても、後日分かってもらえるようにと長文
のレポートを何度も書いては渡したものです。
三年の間に、私の意見はずいぶん取り入れられはしましたが、立地の
悪い所に家を建てることで社長と決定的に衝突してしまったのです。
何千万もする家は買う人にとって大きな負担ですし、また、それだけ
の価値がなければならないと私は思っていました。ですから斜面地を
利用して家を建て、平地の値段に換算して売るというこの社長のやり
方に、どうしてもついていけなかったのです。
私は、「今度建つ家は、売ることに協力できません」と言いました。
「専務がそんなこと言っていいのか」「もう斜面地の家を売るのは
こりごりです。社長にとっては小さい金額であっても、買う人にとっ
ては大きな金額なのですから・・・・・」
この衝突があって、私はこの会社を辞める決意を固めていました。
 
しばらく出会っていなかったF という不動産ブローカーが、私の姿
を見つけてそばへやってきました。
彼は、元新聞記者であることを誇りにしていました。ですから、ほか
の土地ブローカーとは少し違った、あか抜けのしたタイプの、とても
人のいい男でもありました。その人の良さ、当たりの良さが、「彼の
情報はあまり当てにならない」という、業界スズメのうわさのもとで
もありました。
しかし、私は、彼の見識が不動産ブローカーのそれと違っているとい
うこともあって、親しくしていたのです。彼は突然こんな話を持ち出
してきました。
「中原さん、学校作りませんか」
「学校って?」
「高校、高等学校ですよ」
「ちょっと待ってくれよ。いきなり高校を作れって言われたってピンと
こないじゃないか」
「中原さんならできる。いやね、この話を何人かにしたんだが誰も信じ
ないし、みんな金儲けのことばっかり考えて、教育なんか考えないん
だよな。中原さんだったらぴったりだ。どう、高校作らない?」
「ちょっと待ってくれよ。高校をどうやったら作れるというの」
「通信教育を知っているだろう?生徒を集めて、集めた生徒に通信教育
を受けさせるわけ」
「それじゃ、学校と言えないじゃないか」
「いや、通信教育をやっている高校の下請けみたいなもんかな」
「学校を作るっていうのは、法律があってそんなに簡単にできるはずが
ないじゃないか」
「そうかなあ・・・・・絶対できるって聞いたけど・・・・」
私が次から次へと質問すると、F 氏のトーンは下がっていくばかり。
彼の話では、学校を作ることができるという話をかなり多くの人に話し、
そのうちの三人ほどがかなり乗り気になっていて準備をしているら
しいが、まだ具体的には何も動いていないということでした。
F 氏も結局、学校についての法律はまったく知らないということ
でした。
 結果から言うと、私自身もその当時は、学校関係の法律のことを知ら
なくてよかったということになります。その後、教育関係の人たちと
出会ったり、お話する機会が多くなりましたが、ほとんどの方々が法律
的なことはご存じなかったのですから、教育畑でない私が知らなかった
のは当然かもしれません。
私は、F 氏のこのつかみどころのない話に乗ることにしました。なぜ
なら、私自身、教育に多大の興味を持っていて、その頃すでに「ライ
フロング・エデュケーション研究会(生涯教育研究会)という小さな会を
主宰していたからです。
この時私は、F 氏に対し、「じゃ、今すぐ行動に移そう」と言い
彼の知人に会い、その知人をともなって大阪まで車を走らせたのです。
科学技術学園高校大阪分室大阪西区の、あるビルの裏まで私を案内した
彼らは、
「ここのビルの中に『科学技術学園高等学校の大阪分室』というのがある。そこへ行けば分かる」と言うのです。
「君は、一緒に行ってくれないの」
「一緒には行けない。中原さん一人で行ってくれないか」
「??」
まあいいか、せっかくここまで来たのだ、とにかく行ってみようと、
私は意を決してビルの裏口から入っていきました。
大阪分室のK次長という方が出てこられました。
「神戸で学校を作りたいのです。ご協力願えませんか」
それから約一時間、教育談義の花が咲きました。九州で高校の校長を
しておられた経験があるK次長さんは、
「私も、今までかなり多くの方々と教育談義をしましたが、今日は、
とてもいい話をうかがうことができました。今まで、教育畑でなかっ
たとおっしゃるけれど、なまじ教育界の方より教育の本質を知って
おられるのに感心しました。ただ今、分室長は東京の本校へ会議の
ため出張しています。どうですか、中原さんの教育論を書いて直ぐに
持ってきて下さいませんか。ファックスで送れば明日の会議に間に合
うと思います。学校を作るためにはギリギリのタイミングですから」
 私はその日、徹夜をして私なりの教育についての思いを書きました
いや、書いたというよりプレゼンテーション効果をねらってパソコンの
ワープロで打ったのです。当時のパソコン・ワープロソフトは、現在と
違って、一字一字変換をするといった大変手間のかかるものでした。
そのうえ、その一字の変換に時間がかかるという厄介な代物でした。
(2年後あたりには、かなり変換力のあるソフトが出てきましたが)
早速大阪分室まで届けに行くと、一読して「これは素晴らしい」と褒めて
下さいました。私の考えたように、ワープロで打った私の文書は、大き
な効果をもたらしました。
「早速、東京へ送りましょう」と言って、次長は受け取って下さった
のです。
 後で考えても絶対にできるはずのなかった学校だったのですが、不可
能が可能に向かって走り出してしまったのです。
私はその後も大阪の分室を何度も訪ね、生徒募集のこともあり、校舎の
準備などを一刻も早く始めたいがそれでよいかと、決定的な返事を次長に
求めましたが、次長は、分室長とよく相談してお返事します」とのことで、
準備のためのスタートが切れない状態でしたが、十日後には、「準備を
進めてください」との返事を得ることができたのです。
しかし、これはとんでもない大嵐の中へ船出することでもあったのです。