中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(25)

東北地方の被災者のことを思うと、私の古い昔の話など書くのは気恥ずかしいが、
もしかして、東北の若者たちにエールを送ることになるかもと思いなおして書き続ける。
 
自分の存在が否定されていたと知って、身障者の友人にソロバンを担保にして500円
借りて、大阪へ出た。
あの住吉公園で野宿生活をして数カ月後のことだった。
仕事を探すと言っても、以前の経験でそう簡単に見つかるはずはないと判っていたので、
島の内教会の役員でもあった方に仕事探しをお願いした。
時節が時節だけにおいそれと仕事があるわけではない。
その方に、遠く河内の地にあるクリーニング屋さんを紹介された。
河内地方の「河内弁」と言えば、荒っぽいので有名だ。
最近のお笑いの人たちの大阪弁なるものは、大阪弁にあらずして
河内弁と言った方がいいのかもしてない。大阪弁は、もう少し柔かかで味があると
私は思っている。大阪下町の言葉でも、NHKテレビドラマ「てっぱん」のおばあさんが
喋っているようなものだし、大阪の商売人が使っていた言葉は、京都弁に近い。
 
さて、河内にあるクリーニング屋さんは、素人が開業して1年と言う初心者だった。
洗い機もないので、巨大な洗濯板を使っての手洗いだった。
田舎のこととて、これでいいのかもしれないが、先が見えない毎日だった。
それでも、必死に作業を覚えたものだ。
給料も安く、住み込みで食べられるだけ・・という感じであった。
このままでは、いけないと思った。
半年後に大阪市内の西区にあるクリーニング屋さんの募集広告をみて応募し、
そこで雇ってもらうこととなった。もちろん住み込みで、店の裏に掘立小屋があって
店員5名が寝泊まりしていたものだ。
 
河内とは大違いで、洗い機なども機械化されていた。
21歳になっていたので、私は必死だった。他の4人は私より年上だったのがよかった。
年下の先輩がいると厄介なのだ。
必死で覚えた。と言っても、どこまで理解していただけるかわからない。
洗い場作業にも「白物」「色もの」がある。初心者はワイシャツなどの白物を洗う。
経験を積めば「色もの」を扱う。
アイロンを持たせてもらうまでには最低1年以上はかかる。
それを、3か月に短縮してやらせてもらえるように努力を重ねた。
これは、なまじっかなことではない。先輩たちに認めてもらえてチャンスが訪れる。
 
大阪へ出て、1年が経過することには、アイロン作業でワイシャツを1時間で10枚
仕上げるまでに腕を上げていた。
そして、半年後には「白物」の複雑なブラウスなども任された。やがて「色もの」の背広
ズボン、コートなどもやらせてもらう。
一通りの仕事が出来る良いうになり、外回りもした。自転車の後ろに籠を載せて
一軒一軒仕事を集めてr回る仕事だ。
外交廻りを初心者にやらせる場合もある。しかし、一通り仕事の内容を理解したものが
廻ると信用度が違ってくると言うものだ。言葉でいくら「必死」と書いても、伝わるかどうか
分からない。しかし、とにかく必死で働いた。
 
ある日、腹が痛くなって病院に行くと「盲腸」と言うことで即座に入院、手術を受けた。
それからわずか3日目には退院し、4日目にはアイロンを握っていたものだ。
必死さの一つの現れである。知らない土地に行き、知らない職業の中で生きる。
知らない人々と交わりながら生きていく。そして自分を高めていくことこそ人生だと
思っている。