中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

昨年の日記を読み返して友を想う

日々日記を付けている。その日あったことを簡単に記すだけのものだ。
当初5年日記を使っていたが、スペースが少なく大きな字が書けないので、
昨年からは一年ものにして、5年日記は天候や、食事内容を書くことに使っている。
5年ものの良いところは、昨年、一昨年の同じ日に何をしていたかが、自然と目に入って
来ることだが、一年もの日記になると読み返すことなどない。
しかし、親友の逝去があって、彼とのいろんなことを思い出し、昨年の日記を読んでみた。
数えてみると、昨年一年間に彼と会ったのは30数回で、10日に一度は会っていた計算になる。
彼とはいつも昼飯を一緒に食べたり、喫茶店でコーヒーを飲みながら喋っていたのだが、
グループの会長、副会長としての難しい話をしたことはない。
なにしろ彼は「会議」と言うものが大嫌いだった。だから、ある団体に加入した時、例会ごとに
「会議」があるのを嫌がって「早く退会しようや」と彼が言った。彼が自分の意見を言ったのは
これが最初で最後だった。
いつも私の提案に「それはいいな~」とか、「いけるよ」とか積極的に支持をしてくれていた。
詳しい内容など話す必要はなく、全面的に私を信頼してくれたのも、35年にもなる長い付き合い
だからであろうか。
その上、彼は忙しい。神戸の1・17関連事業の代表でもあったし、民生委員、保護司もやっていた。
お互いに忙しいことが分かっているから、仕事を頼むことはほとんどなかった。美術展開催に際し
作品集めの協力を依頼したぐらいだった。
ツーカーと言う言葉があるが、彼と私はツーカーの間柄だったので、何事にも詳しい説明が不要だった。
そういうことよりも、生き方に関することでよく話し合ったものだ。
彼と出会った頃、私は40歳を少し超えた時であり彼は40歳になっていなかった。だから彼を
弟のように思い、機会あるごとに生き方について論じ合った。
私が2005年に帰国した時には、彼の悪性リンパ腫も完治と言ってよい状態だった。
彼は、「むかし、あんたに教わったことが、震災後にとても役立ったよ」と言い、「あんたのことだから
また何かをやると思うけど、協力するよ」と言ってくれたものだ。
お互いに気の置けない間柄とはこういうものだと言う感じであった。
昨年、6月29日に、美術展にご協力くださったギャラリー島田にお礼のあいさつに彼と共に行った。
そのあと、北野界隈を散策しながら、男同士でしか話せない昔話に花が咲いた。40歳代、私もよく
もてたものだが、彼もよくモテたらしい。夜になるまで歩きながら、喫茶店で昔話を楽しみ、
夜には、懇意にしていただいている世界的研究者(幹細胞研究、再生医療などの)でもある
西川先生ご夫妻などと北野にあるピザ店で食事を共にした。
それからわずか、1カ月余り後に「肺がんが見つかった」と連絡があり、早速会って話しを聞いた。
毎月、悪性リンパ腫関連の検査をしてきたが、まさか肺がんとは・・と彼は絶句した。
転移性がんではなく、原発性肺がんで小細胞がんだったと言うことは、昔の喫煙習慣が原因
だったかもしれない。それからわずか6カ月後に、彼は召されてしまった。
ツーカーの友を亡くした私は、なかなか立ちなおれそうにない。
グループのことは、彼はほとんど関係していなかったので支障はないが、そんなことではなく、
ツーカーの友と言うのは、やはり半身のようなものなのだ。
これが、夫婦ならもっともっとダメージが大きかろう。
だから遺族の方々は、この苦しみの何十倍もの辛さを味わっていることだろうと思う。
このブログを何のために書いているのか。ブログだから日記と同じで、自分のためである。
だから、読んで下さる方は、気楽に読み飛ばしていただきたい。