無縁社会と言うから、私はてっきり高齢者の社会問題だと思って観ていたら、違ったので驚いた。
なんと若者から高齢者まで「無縁社会問題」が存在するらしい。
話を聞いていて、呆れると言うか、馬鹿らしいと言うか、だんだん腹が立ってきた。
「甘えの構造」がここまで浸透してきているのか、ここまで日本人はだめになってしまっているのかと
情けなくなってきた。
「支えられていない」「必要とされていない」などと言う言葉に至っては、反論するのもバカらしいが、
やはり一言いっておこう。
傷害を持っていたり、動けなくなった高齢者が「支えられていない」と言うのなら分かるが、若者や
中年者がそんな言葉を発していてはどうにもならない。
そんなたわごとを言えるだけ幸せ者なのだと言うことさえ知らないようだ。
支えてももらうことを望んでいるような若者を誰が支えようか。必要とされていないと嘆くような
人間を、だれが必要とするだろうか。
受け身で、支えられたり、必要とされることを待っているような人が何の役に立つだろうか。
本来、だれも支えられていないし、必要とされていないものなのだと言うことを知ってほしい。
最も理解しやすいのが動物である。動物は子供を大事に育てるが、ある時期になると親は子供を
突き放す。鳥だってそうだし、猛獣だって同じだ。
昔から、かわいい子には旅をさせろとか、ライオンは子供を千尋の谷に突き落とすという言葉が
あるように、支えられたり、必要とされる前に「突き放される」ものなのだ。
そこから、どのようにして千尋の谷からはい上がって、必要とされるものとなるかが問われる。
鳥だって、親鳥から口移しにもらっていた食べ物を、自分で摂らなければならなくなる。当然、
他の動物に襲われることだってある。どうやったら生き延びられるかは、自分次第の世界なのだ。
支えられるのではなく、人を支える側になろうと真剣に思えばそうなっていくものだし、必要とされる
人間になろうと心掛けfれば、必ずそういう人間になれるものなのだ。
人に求めるのではなく与えることが大切なの言うことを知ってもらいたい。
与えるとは「心」であって、金銭ではない。だから、自分がどんなに貧しかろうと「与える」ことは
出来ると言うものだ。
これから、私の人生を綴っていくが、身寄りのない一人の若者が、どのようにして生きてきたか、
少しは参考にしてもらえればと願っている。
私の人生は、とても厳しかったが、とても楽かったし、心豊かな人生だったと思う。求めないで
生きてきた結果でもある。
人は変わり得る。気持ち次第でどうにでも変わる。自分から逃げていては、いつまでも変わることは
ない。何よりも辛くしんどいのは「自分を変える」ことだと言うことを知ってもらいたいし、それでも
前向きに変わっていってほしいと願っている。