中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(12)

18歳の頃にジープに乗ったことを書いたが、私の自動車経験は、同時代の人たちと較べて
早いと思う。
小学4年生のころ(1943年)に父と大阪で暮らしていた頃、父はダットサンに乗っていた。
当時「はなべちゃ」と言われていたが、トラックのキャブオーバーでボンネットのないタイプの車だった。
休みの日とか放課後などに、トラックの助手席に乗って大阪を駆け回っていた。信じられないかも
知れないが、当時の大阪での運輸は馬車が中心で、トラックなどとても珍しいものだったのだ。
私の生まれる1年前には、大阪には日本で2番目に地下鉄が開通していた。映画などによく出てくる
ミルクホールなどもあちこちにあった。そういう意味では、私はシティーボーイだったのだ。
と、ここまで書いて、やはりいじめられていたのも、それが原因だったと思い当たる。
当時の自動車は、キーをひねればエンジンが始動する言うようなものではなく、前に回って
ぐるぐるハンドルを回してエンジンを掛ける。そういう動作や運転などを目の当たりに観ていて
興奮していたことを思い出す。
父との想い出の中で、唯一と言っていい想い出はこれだった。
ついでに父のことをもう少し書いておこう。
小学4年生の後半に父は徴兵された。父は日中戦争のころ入隊しているので、もう軍に関係
することなどないだろうと言われていたが、負け戦が続く中で戦力不足となり父にもお呼びが
かかったと言うことだ。
川西に飛行場があった・・と言っても信じてもらえないし、調べても分からない。
だがしかし、確かに私はそこへ行ったことがある。
飛行場の中に兵舎があり、そこに泊ったことがある。夜中に兵隊がビンタを食らう音がして
私を脅えさせた。
戦闘機が飛び立つとき、みんなが敬礼をして見送っていたことを思い出す。
当時のことだから、生きて無事に帰って来られない飛行機が多かったのだろうと思う。
とても不思議な体験だった。
父はその後、今度は姫路の連隊に入り、朝鮮へと送りだされた。
丁度38度線ぎりぎりの沙里院というところだったと記憶している。
父の話によると終戦時、連隊の幹部たちは「アメリカと戦争したが、ソ連とはやってないので、
38度線より北側に居たほうが得策」 だと判断したようだ。
それが裏目となり、貨物車に放りこまれ、シベリアへと送られてしまう。
中年を過ぎてから、シベリアでの厳しい寒さと作業の中で、体は痛み、末期がんになって
最終便近くの24年の夏に帰国した。
父にとっては、なんともやるせない42年の生涯だったことだろう。
ソ連・・やはり、憎さが私の心から離れない。私から何もかも奪った敵のように感じるからである。