中原武志のブログ

生きていくうえでの様々なことを取り上げます

私流生き方(11)

18歳に生き別れた母と再会。これで僅か13文字だけど、この13文字の中には
どれだけ濃い中身が詰まっていることか。
2歳半で生き別れた後に、もし幸福感溢れる環境に育っていたらなば、母への想いは
さほどではなかったかも知れない。
しかし、母だけではなく父ともほとんど一緒に暮らしたことがない。覚えているのは
私の小学1年生ころに再婚した父と、小学生3年生の半年間と小学4年生の半年の
合計1年間、大阪で生活をともししたぐらいである。
大人の都合で、小学3年と4年の半年間を大阪で過ごした私は、結局大阪でもいじめられ、
淡路島でもいじめられることになった。
いじめと言うのは、今に始まったことではない。昔から延々と続いてきたものだ。
子供と言うものは天使であるとともに悪魔にもなると言われている。子供には加減や
手心がないだけにいじめは陰湿になる。
私は、淡路島の小学5年生から6年生の終わりごろまでいじめを受けることになった。
中学生になると、私の英語力がずば抜けていたこともあっていじめは影をひそめた。
6歳まで大阪で育ったので言葉が純粋な淡路弁ではなかったのが原因だと思う。
子供と言うのは、自分たちと同じものを求め、違うものを排除する習性がある。いじめの
ほとんどのきっかけは「違和感」から始まる。
いじめられても、今の子供のように親に報告することもなく、黙って耐えるしかない。
親や教師に言っても駄目なことは分かっている。それは今でも原則的には同じなのだ。
そういういじめを受けて辛かったのは、帰宅しても心が温まる場がなかったことである。
だから、家に居ても、外に出ても耐えるしかなかった。それが、軟弱だった私を鍛えることに
なったのだろうと思っている。
苦しい時は、母がいれば・・と、何度思ったことだろうか。探し求めていたのは母ではなく、
母性愛だったのだとおもう。
再開した母に母性愛を感じられなかった私は、自立の道を選んだのだった。
キリスト教旋風を巻き起こしていたころに、ある有名な牧師から「君は牧師になる気はないか」
と誘われた。しかし、高校も出ていない私には神学校進学への資格はない。
岩塚牧師はこう言った。「私のところには、伝道学校がある。そこで1年間を過ごせば、
東京の6年生神学校に進学できるよう特別推薦をしよう」と。
その話に乗ることとなった。
今の兵庫県加西市にある、飯盛野教会だった。広い敷地があり、農場もあった。
昼は農場で作業し、夜は勉強に明け暮れる日々だった。
アメリカからの宣教師も在住していて、初めて外人を身近にする機会でもあり、伝道集会
には宣教師の運転する大型ジープに乗って移動したものだ。