ようやく、夢にまで見た母と会うことが出来た。
母は、父と別れて後に再婚をしていた。相手は母の幼馴染でもあったらしい。
釣り竿会社の工場長をしており、京都・神足の駅近くの工場の社宅を住まいにしていた。
私にとっては義理の父になるこの方は、おとなしい人だった。
母にしても、義理の父にしても、突然降って湧いて来たような、すでに18歳になっている
子供の出現に樹も動転だったのではなかったかと・・・今思う。
とにかく、祖父母たちとも話し合い、私を京都に引き取ることで話しが進められた。
私にとっては戸惑いもあったが、何より進学への気持ちが強く、高校へ行かせてもらえるならと
京都に身を寄せることとした。
中学の先生が、淡路島の祖父母に何度も私の高校進学を勧めてくれたが、父の死後とあって
「跡取り」としての立場から外す目的もあってのことだろうが、私を疎外することにして、父の
末弟を跡取りに据えるつもりであったようだ。これはのちにはっきりする。
そういうわけで、高校進学させてもらえなかった悔しさをずっと持ち続けていただけに、進学させて
くれるという一言に、京都行きを決めたのだった。
母は、戦後の生活苦の頃に、昔習い覚えた日本舞踊を教えることで生活を支えたらしく、
当時は立派な名取として多くの生徒を抱え、年に一度は阪急長岡天神境内にある「錦水亭」で
大規模な発表会をしていた。
義父は工場長として、母は日本舞踊、三味線、小唄、端唄などの師匠として毎日が多忙だった。
いつの間にか、高校進学の話は途絶えたが、私から言い出すこともなく、上場会社の中でも
当時かなり業績の良かった日本輸送機株式会社へ入社することになった。
しかし、これは私の望むことではなかった。こんな大きな企業に中卒として入社しても先が見えて
いるように思っていたからだ。
少なくとも中学を卒業してから3年間、誰の後ろ盾もなく一人で生きてきた。ここにきて母たちの
世話になって就職することには、なにかしらの違和感があった。
結局、わずか半年あまりで母の元を離れることににした。
今の若者の多くが、親の家に住み、アルバイトなどをしながら生きているの生き方とは違う。
自立して生きていく。親などの世話にはならないとしっかり思っていたからでもある。
わずか半年ではあったが、この地域にある旋風を起こしていたものだ。弱冠18歳の青年が
当時のこの地域にキリスト教旋風を巻き起こしていた。今考えてもよくやったと思うが、眠っていた
教会員たちに火をつけた形になり、街を上げての旋風とまで言われた。
この時の経験が、次のステップへとつながって行くことになった。